「男女を平等にしたら日本経済が没落する」
入省した年、大学時代からの仲間と結婚。ふたりで話し合い、妻の姓である「赤松」を選んだ。夫の姓に入ることを当たり前とする、社会通念への抵抗でもあった。
入省後も男女差別は続く。同期の男性たちは次々と出世していった。赤松は納得がいかず、人事や昇進に不満を憶えた。
「男性と対等に扱って欲しいのに、そうしてくれない。男性キャリアには、絶対にやらせない種類の仕事を私には振ってくる。役所を辞めようと思ったこともあった」
その後、婦人少年局の婦人労働課に配属された。赤松は民間企業の女性差別の実態、女性だけに設けられた結婚退職制度、若年定年制度等を知り、強く憤りを感じた。これらを取り締まり一網打尽にできるような法律が作りたいと思った。この時から、赤松ははっきりと自分の後半生を働く女性の権利を守る法整備にかけようと決意したのだった。
婦人労働課長になると赤松は、勤労婦人福祉法の立案に取り組んだ。この中に、初めて育児休業制度が取り入れられたのである。
さらに国連の女性差別撤廃条約を批准するよう、国内法の整備に取り組んでいった。どこの先進国も女性の働く権利を守っている。ところが日本だけが女性を安い労働力と見なして、いいように搾取している。こんなことは許されないという思いがあった。
1882年に婦人少年局長となった赤松は、男女雇用機会均等法の成立に全力を傾けていく。この法律を作れば、世の中が変わる。女性の立場を守ることができるという強い信念があった。
しかし、社会の反発はすさまじいものがあった。「男女を平等にしたら日本経済が没落する」と財界は徒党を組み、日経連は反対声明まで出した。政界では男尊女卑の価値観に凝り固まった自民党の政治家からだけでなく、社会党の女性議員からも「あなたは女工哀史を知らないのか」と糾弾される。それでも、最後までくじけず赤松は意志を貫き通した。
「批判をかわして法律を通すには、妥協も必要なの。ただでも男性たちの反発が強いんだから。それをかわして、とにかく完璧じゃなくても、まずは通すことが大切なんですよ。法案は。その後、改正して理想に近づけていけばいい」。その信念を赤松は貫いた。1985年、ようやく男女雇用機会均等法が成立。これによって女性たちの就業の権利がようやく法律の上で保障された。
石原や赤松と向き合って感じたことは、「自分たちが生きた時代の中で、やるべきことをやった」という強い気概である。育休も、女性が働き続けることも、ほんの少し前までは、あり得ないこと、考えられないこととされていた。
社会は常に変えていくことができる。諦めるのではなく、自分の手で変えようとする。理不尽だと思うなら声をあげ、変革や妥協点を見出していく。それによって自分が身を置く組織が、社会が変わる。
カネカの一件は、重要な問題提起だ。男性の育休率が低い理由はどこにあるのか。育休を企業は、社会はどう思っているのか。今一度、議論を深めるべき時期にあるのではないだろうか。
(文中一部敬称略)