解説:弱者が勝つわけではないのは昔もいまも同じ?

 いま農村はさまざまな問題を抱えている。過疎と「限界集落」化、高齢化と担い手不足、消費者のコメ離れ、グローバリゼーションの「外圧」……。いまから約90年前、大正時代後半から昭和の初めにかけての農村も変革期を迎えていた。第1次世界大戦後の不況に始まる米価と生糸価格の下落に加えて、都市への出稼ぎが減少。対して江戸時代以来、農民が収穫米の半分を藩主に献納する「五公五民」は、資本主義の時代になってもほとんど変わらなかった。当時、自作兼小作を含めた小作農は農民の約7割。大正デモクラシーの影響で労働争議が各地で起きており、近代意識が芽生えていた農民たちが不満を膨らませるのは当然だった。

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 民俗学者・宮本常一らが「日本の最底辺にうずもれた人々の物語」としてまとめた「日本残酷物語」(平凡社、1959~60年)。新潟県北蒲原郡木崎村(現新潟市北区)の事件は、その第5巻「近代の暗黒」の「大地のうめき」の章に取り上げられ、当時の小作争議の中でも「最も徹底したものであった」とされている。しかし、事件について書かれたものの中には正確でない記述もある。「新潟県史 通史編8 近代3」(新潟県、1988年)を中心に経緯を振り返る。

搾取され続けた小作人の怒りが爆発した日

 当時、日本最大の米作地の新潟県は「地主王国」としても知られていた。農林省(当時)の統計では1924年、50町歩(約50ヘクタール)以上の地主が264人で北海道に次ぐ全国第2位。県内小作農の1日の労働報酬は、日雇い労働者の日給の半分以下。当然、小作争議が増加。毎年件数は全国一を記録した。1928年などは398件で全国の件数の約5分の1。そんな中、木崎村の闘いが始まったのは1922(大正11)年11月、村の2地区の農民が小作人組合を結成したことだった。翌年、地主側に小作料2割減免を要求。地主の大多数が受け入れ、いったんは農民が勝利したように見えた。

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 しかし、大地主の真島桂次郎は同意せず、未払い小作料の支払い請求訴訟を起こして対抗した。農民側の要請に応えて、22年4月に結成された日本農民組合が支援。片山哲(戦後、首相)、三宅正一(戦後、衆院副議長)、浅沼稲次郎(戦後、日本社会党委員長)らが尽力し、木崎村の各地区に農民組合ができ、「木崎村農民組合連合会」も結成された。

片山哲 ©文藝春秋

 だが、真島は24年3月、小作人60人余りの耕作地約40町歩(約40ヘクタール)=本編では60町歩となっている=を立ち入り禁止とする仮処分を申請。裁判所はそれを認めた。「父母伝来愛着の土地に『小作人立入る可らず』の禁札が雪解の水を湛えて氷雨降る中に鷗の如く点々として樹てられた」。連合会会長・川瀬新蔵は「木崎村農民運動史」(農民組合史刊行会、1957年)にこう書いている。このとき、農民組合木崎支部長の長男が日本刀で割腹自殺を図る(未遂)というショッキングな事件も起きた(支部長本人とする資料もある)。