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「本人がやると言った」が危険

 まず、子どもの人生を親または親族一同が決めていること。被告人の一家はそろって名門進学校出身者であり、特に嫡男は薬剤師として被害者の曾祖父の世代から続く薬局を継ぐことが、一族の方針として決められていた。

 証言台に立った被告人の父親(78)は、「崚太は佐竹家の大事な跡継ぎでしたから、私にとっても憲吾(被告人)にとっても宝物でした」とくり返した。「跡継ぎだから宝物」という論理に、何の疑いももっていないようだった。

 言うまでもなく、子どもの人生は子どもの人生。親が子どもの人生に何らかの期待を寄せるのは決して悪いことではないが、それは親の勝手な期待である。たとえそれがかなわなくても、子どもの責任ではない。

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 次に、あくまでも崚太君本人の意志で中学受験を選択し、父親・叔父・祖父と同じ進学校を目指していることにされていること。崚太君は2歳ごろから、その学校への進学を刷り込まれており、本人も本気で目指していたことは間違いないだろう。

 しかしここにこそ落とし穴が生じる。「本人がやると言ったのだから」という大義名分が、どんなにつらい仕打ちでも子どもにやらせる正当性を、親に与えてしまう。「これは私のエゴではない。本人が望んでいる苦行である」と自分自身に言い聞かせ、いくらでも暴走できてしまう。

 本人が「やる!」と言っても、適当なところでとどめるブレーキ役に徹するのが親あるいは指導者の役割である。子どもが自らアクセルを踏み込むように見守り、励ますことはあってもいいが、子どもの代わりにアクセルを踏み込めば大事故につながる。

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多くの親も用いる「言葉のナイフ」

 そして、「勉強を教える」とは名ばかりで、実際には恐怖によって「勉強させる」ように仕向けるだけの指導だったこと。今回の事件の場合、最終的に包丁が恐怖の象徴となるが、子どもに恐怖を与えるのに刃物を持ち出す必要もない。

「あなたはダメな子だ」「家を出て行け」「受験なんてやめてしまえ」など、親が言葉のナイフを振りかざせば、子どもは簡単に恐怖に陥る。ときには文字通りの致命傷を負わせることもできる。強いプレッシャーを感じた子どもが自ら命を絶ってしまったり、重い後遺症に苦しみ続けたりすることもあるのだ。

 脅して勉強させたところで、効果は一時的。効果を持続させるためには脅しをエスカレートさせていくしかない。多くの場合は入試本番を待たずして子どもがまいってしまうのだが、仮に「志望校合格」という目的は達成されたとしても、脅され続けた子どもが受けた傷は簡単には癒えず、人生を狂わせる。

 教育虐待の加害者であり、被害者でもある佐竹被告の人生は、まさにそのことを証明している。