良い学校に入れるために不適切な教育をする矛盾
「教育虐待」とは、「あなたのため」という大義名分のもと、子どもの受容限度を超えて勉強をさせることである。その前提として、本人の意志を軽視・無視した進路設計・人生設計があり、限度を超えてまで勉強させる手段として暴言・暴力・威嚇行為が用いられる。
佐竹被告による教育虐待はまさに型どおりなのである。
被告人は「(息子には)自分のやりたいことをやってほしいと思っていました」と供述している。多くの教育熱心な親も同じだ。「子どもの人生は子どもの人生。自由に生きてほしい。人生の選択肢を増やすために、良い教育を受けさせたい」と本心から言う。しかし目的と手段が入れ違うと、良い学校に入れるために、不適切な教育的指導すなわち教育虐待に発展する。
「良い学校に行かないと良い生き方ができない」という非理性的な信念は現在の社会全体を呪縛している。親自身がすでに囚われていることも多い。親の役割はその呪縛を増幅して子どもに伝えることではなく、その呪縛から子どもを守ってやることだ。
「合格させられるかどうかは親の腕次第」という思考
また崚太君の部屋のホワイトボードには「T中学に合格させてください」と書かれていたと、被告人の妻(当時)が証言している。被告人は、わが子をT中学に合格させられるかどうかは自分の親としての腕次第だと思って疑っていなかった節がある。これも多くの教育熱心な親、特に中学受験生の親に見られる思考だ。偏差値をあげる指導は塾の先生がしてくれる。一方で親が第一にやらなければいけない役割は、子どもの心身の疲れを癒やし、安心感を与えることである。
今回の事件では、子どもを脅すため、包丁という物理的な道具が利用されたが、鉄拳制裁を多用する親もいるし、鉛筆で手の甲を刺されたという事例も私は複数知っている。暴言という言葉のナイフをついわが子に向けてしまったことがある親なら少なくないはずだ。
ただし、怖がりすぎる必要はない。最初から聖人君子のような親はいない。親も失敗しながら、親として成長するものだ。「自分は大丈夫かしら?」と不安に思う感性をもっているのならたいがいの場合、大丈夫。子どもを壊すほどひどい教育虐待にいたるのは、親に迷いがないケースがほとんどなのだ。