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まだ幼稚園に通っていた頃、毎夜のごとく枕元に現れては、眠ろうとする私を恐怖のどん底に突き落とす女性がいた。母である。2人の息子を本好きにしたかった母は、男の子の喜びそうな話は何だろうと考え、子供向けの怪談集を選んで読み聞かせていたのであった。
これにまんまと嵌まったのが弟のほう、つまり私だ。5歳の身空で毎夜のスリルが病みつきになり、やがて自ら小話を作るようになり、さらには本好きが昂じて書く側に回ってしまったのだから、人生、何が幸い(災い?)するか分からない。子供が何かを怖がり始めたら、それは想像力が働き始めた証拠だという。だとするなら、私は幼児期のかなり早い段階で、想像力を徹底的に鍛えられたことになる。小説家にとっては有り難い資質だが、幼稚園児の息子に『番町皿屋敷』を読み聞かせていた母は、子供をエンタメ作家にするための英才教育を施しているとは夢にも思わなかっただろう。
三つ子の魂百まで、今でも奇談怪談の類は大好きで、幽霊、UFO、UMA(未確認生物)などは一目見てみたいと思っているのだが、未だにその願いは果たせていない。その代わり、ちょっと不思議な体験はいくつかある。一連の出来事に共通するのは、奇怪に思われるが合理的な解釈も可能という、何とも微妙な現象であるということである。
例えば、作品の取材で青木ケ原の樹海に行った時は、私と編集者が持参したカメラが2台ともシャッターが下りなくなったし、日没後の森の中では、視界の隅にぼんやりした人影が見えたような気もした。しかし2台のカメラの調子が悪くなったのは偶然で、人影が見えたのは気のせいとも考えられる(実際、気のせいだったかも)。
また、脚本家をしていた際、稲川淳二氏原作の怪談をVシネマ用に脚色する仕事を請け負い、原稿を書き上げて撮影前のお祓いに行こうとしたら、神社に足を踏み入れる直前でショルダーバッグのストラップが千切れるという、かなり怖い経験もした。しかしバッグは使い古された物だったから、これも偶然の一言で片づけられよう。
次に紹介する出来事も偶然の産物で、客観的に見れば怪異とは言い難いが、自分にとっては戦慄を禁じ得ないものであった。