篠田正浩監督が一貫して描いてきたテーマは、「日本」であり「日本人」であった。
日本映画なのだから当然――と思われるかもしれないが、ここまで徹底して、そして意識的に、「日本とは」「日本人とは」を作中に叩きつけてきた監督は、そうはいない。
しかもそのスタンスは、右翼的な日本礼賛でも、左翼的な国家批判でもない。イデオロギーとしてではなく、どこか民俗学の研究者のような純粋な好奇心として「日本とは何か」「日本人とは何か」を追究しているように映る。
その際に篠田がよく使うのが「異邦人から見たドメスティックな日本」という構図である。キリシタン禁教下の長崎に潜入した神父の目を通して展開される『沈黙 SILENCE』はその最たるものといえるだろう。他にも、『悪霊島』や『少年時代』のように、都会からの来訪者の視点を介して「田舎」の諸相を描いていくというケースもある。
今回取り上げる作品は、『舞姫』だ。森鴎外の代表作を映画化した作品である。こうした彼のスタンスを踏まえた上で接してみると、本作もまた実に篠田的だと気づく。
決してそこに溶け込むことのできない、近代を背負った人間が迷い込む――という対比的な構図により、土俗的な本質を浮き彫りにする。それが篠田映画の共通点といえる。
だが、本作はその構図を逆転させている。主人公が「異邦人」であることには変わりない。が、本作では、「近代化された世界」に「ドメスティックな日本人」が誘われる――という展開なのである。
舞台は十九世紀のベルリン。国費留学生として医学を学ぶ豊太郎(郷ひろみ)は、貧しい踊り子・エリス(リザ・ウォルフ)と出会い、恋に落ちる。全てを捨て彼女と暮らす豊太郎。幸せな日々を送っていたのもつかの間、帰国せざるをえない事態が起きる。その時、エリスは豊太郎の子を身ごもっていた――。
実際に現地で撮影されたベルリンの街並の壮麗さ。エリスの可憐さ。煌(きらめ)くばかりの逢瀬。物語中盤まで、映し出される世界はとにかく美しい。そしてこの美しい映像が、終盤になっての悲劇的な展開に大きな意味を持ってくる。
その街並も、そして「愛」という概念も、当時の日本にはなかった。それを美しく描けば描くほど、捨てざるをえない豊太郎の「日本人としての宿業」が際立ってくるのである。ここでも、土俗と近代との対置がなされている。
この機会に篠田作品に触れ、異邦人たちの視点を追体験することで、自分たちが暮らしている土壌、ひいては自分たち自身のアイデンティティを見つめ直していただきたい。