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「王様と奴隷でした」……北九州監禁連続殺人事件で7人が殺害されるまでのおぞましい手口――2019上半期BEST5

ケース2・松永太 北九州監禁連続殺人事件#1

2019/08/15
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高校2年のときに、家出した女子中学生を家に泊め退学処分

 そんな松永は高校2年のときに、家出した女子中学生を家に泊めたことから、不純異性交遊の咎で退学処分となり、久留米市の私立高校に編入した。その高校では自分が暴力団組員と繋がりがあるかのように装い、「俺に手を出すと酷い目に遭う」と口にして、同級生に信じ込ませていた。

 1980年に高校を卒業した松永は、福岡市内の菓子店や親類の布団販売店などを転々とした。とはいえ周囲からは、「なんもしよらんように見えた」との声が上がるほど、不真面目な働きぶりだったようだ。

 じつは同年の夏、松永と純子との間に、初めて互いを意識する関係が生まれていた。その事情を知る元福岡県警担当記者は語る。

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「松永がほとんど面識のなかった純子に電話をかけ、外で会ったというのが2人の馴れ初めです。でも、それは松永がたまたま、自分が退学になった高校の卒業アルバムを見て、当時交際中の女性と同じ『ジュンコ』という名前なので、ふざけて電話したというのが真相です」

 もしここで松永の気まぐれがなければ、純子は犯罪者にならず、親族の6人は死なずに済んでいたはずだ。だが、運命はこんな些細なことで狂わされてしまう。

 この記者によれば、件(くだん)の電話で当時短大生だった純子と1度は会うが、次に松永が電話をかけて彼女をふたたび誘うのは、それから約1年後のこと。ただ、再会時の松永は、高校時代に培った“スケコマシ”の技を発揮したという。会社を経営して成功していることや、音楽の才能を認められていることなど、学生の純子の前で大風呂敷を広げ、好印象を残した。

©iStock.com

 1981年に松永は別の「ジュンコ」と結婚するが、翌1982年に純子が勤務先の幼稚園で巻き込まれたトラブルの相談を松永にしたことで、男女の関係を結ぶ。妊娠中の妻のいる松永との不倫交際の始まりだった。

 当時、ろくに仕事をしていなかった松永は、事業の世界に乗り出した。1981年5月に父親の会社を引き継ぐことになり、翌1982年には、柳川市に布団訪問販売会社『ワールド』を興したのだ。

 この家業引き継ぎの経緯を含め、松永と両親との関係について、松永家および親族は取材を完全に拒否しているため、窺い知ることができない。ただ、松永は1985年に祖父や実父の反対を押し切って約5千万円を銀行から借り、実家があった場所に3階建ての自宅兼事務所を新築。さらに1988年にはそこで同居していた両親を自宅から追い出している。

『ワールド』時代の松永の行状こそが、後の犯行に重なる、詐欺と暴力にまみれた世界だったことは、紛れもない事実である。

「世間知らず、お人好し、言うことをきく人間を探し出せ」

 “生け捕り部屋”と呼ばれる平屋建ての木造小屋が『ワールド』の敷地内にあった。

 20歳の松永が布団販売会社を引き継ぎ、自分の布団“訪問”販売会社とした途端に、営業方針は激変した。高校の同級生のうち、自分の意のままに操れる2人を側近の幹部社員に据え、「お前らの友だちに『会社が倒産しそうなんで助けてくれ』と頼み込み、土下座してでも布団を売れ」と仕事を強要したのだ。

 松永が押しつけた“泣き落とし商法”では、原価数万円の布団を、S(シングル)25万円、W(ダブル)30万円という法外な値段で販売した。同時に、幹部の彼らがさらに同級生へ声をかけ、従業員集めをするようにも命じた。その際、松永は次のような檄を飛ばしている。

「世間知らず、お人好し、それである程度言うことをきく人間を探し出せ」

 そこで実行された従業員の獲得手段は、まさに“生け捕り”といえるものだった。

 元同級生の幹部社員や従業員から強引に契約させられた結果、高額の支払いに窮した者は、従業員として無給で働くことを迫られる。また、そこで保証人になった者も同じで、代金を肩代わりできない場合は働かされた。さらには、布団の購入が無理なら販売を手伝って欲しいと頼まれ、それくらいならと了承したところ、社名入り名刺を作られるなどの既成事実を口実に脅され、従業員にさせられた者もいた。

 そのようにして確保された住み込みの従業員たちが寝泊まりしていたのが“生け捕り部屋”なのだ。

 従業員たちは残飯のような食事しか与えられず、命令に従わないと殴る蹴るの暴行を受けた。さらに逃走を防ぐために相互監視を命じられ、従業員どうしの密告が横行していた。まさにその後、北九州市の三萩野マンションで実行された虐待のひな形が、柳川市の『ワールド』内で萌芽していたのである。

 前出の記者によれば、この時期に後の松永の人格を形成する、3つの大きな要素があったという。