島での性的退廃は、男たちに10~20代の若者が多かったことが大きい
さらに言えば、地理的条件も大きい。比嘉菊一郎と和子の夫は南洋興発の社員。同社は「海の満鉄」と呼ばれ、日本海軍と密接な関係を持つ実質的な国策会社だった。南洋一帯でサトウキビによる製糖、イモからのアルコール醸造、ヤシからのコプラ(種の胚乳を乾燥させた油脂)製造、リンなどの鉱産物開発などを幅広く手掛けていた。
初代社長の松江春次は福島県・会津出身で、第1次世界大戦後、徳島に造られた捕虜収容所の所長を務めた松江豊寿の弟。ニューギニア開発にも意欲を見せ、買収して日本人を大量移民させる壮大な計画を持っていた。南洋諸島への沖縄からの移民にも力を入れていた。菊一郎と比嘉和子の夫の採用もそうした計画の延長線上だったと考えられる。
その南洋興発の事業関係文書を見ても、アナタハン島は全く出てこない。現地の住民を使ってコプラを作る事業をしていたというが、どれだけ重要性があったのか。あるいは、菊一郎も和子の夫も、事業よりも住民の宣撫や情報収集などのための、小野田寛郎氏のような「残置諜者」だったのではないか、と想像するのだが……。
島での性的退廃は、男たちに10~20代の若者が多かったことが大きい。和子も20代だった。だが、ほかにも要因がある。男たちが兵隊と徴用された民間人の混成だったこと。
「もともと偶然の寄せ集めだっただけに、チグハグな一同の感情がそうさせたのである。皆が分散生活を始めると同時に、この皇軍部隊は軍規や秩序が急激に低下して、一種の無政府状態に陥りはじめていた」とサンデー毎日1952年12月10日号は指摘している。これが軍隊であっても民間であっても、単一の組織で指揮系統がはっきり定まっていたら、集団の秩序の乱れは何とか抑えられたはずだ。
それは彼女の生きるすべだったのだろう
「アナタハンの女王(蜂)」という言葉について考えてみる。本当にそれが事実を正確に表していたのか。「食と性によって男たちに君臨していた」という指摘があった。和子は「ピストルに従うしかなかった」という趣旨の発言をしている半面、「女王(蜂)」という呼び名に自尊心をくすぐられた印象も受ける。しかし、実際は男たちの力に従うしかなかったのが実情だったのではないか。後になって、そうした事態を自分に有利なように利用したとしても、それは彼女の生きるすべだったのだろう。
下川耿史「昭和性相史 戦前・戦中篇」には、アナタハンと同じマリアナ諸島にあり、太平洋戦争激戦地の1つだったテニアン島のエピソードが出てくる。アメリカ軍の攻撃で日本軍は壊滅状態になり、兵士、民間人が入り乱れてジャングルで生存のための生活を始めた。
「女は男に養われるしか生きる道がなく、男が自分のために食糧を確保してくれる間だけ、その所有に帰した」「時には食糧が原因ではなく、武力で女の所有が移ることもあった」。それが戦場の現実だった。アナタハンは戦場でこそなかったが、事態はそれほど違わなかったはずだ。