50歳の波乱の生涯だった
沖縄に帰った和子はその後、2人の子持ちの男性と結婚。名護市でタコ焼き屋を始めた。子どもとの折り合いもよく、平穏な生活だったようだ。しかし、脳しゅようを発症。1974年3月、名護市内の病院で死亡した。50歳の波乱の生涯だった。
サンデー毎日1986年10月5日号によれば、実姉は「あまり苦しまずに往生しました。あのあと、横井さん、小野田さんが山から出てきたから、もう思い残すことはないと話していた直後でした」と語った。
敗戦時、海外にいた軍人・軍属と民間人は計約660万人。1945年に引き揚げを開始し、1947年末には、シベリア抑留などソ連占領地区以外はほぼ完了した。しかし、その後も未帰還日本兵の情報は後を絶たず、反安保闘争真っ最中の1960年にグアム島で2人、沖縄が返還された72年に同じグアム島で横井庄一さんが救出された。そして、前年のオイルショックを引きずった74年、和子の死の直前にフィリピン・ルバング島で小野田寛郎さんが救出された。和子はこれらのニュースに無関心ではいられなかったのだろう。
和子も男たちも、米軍が時折投降勧告に来ることを知っていた
こうして新聞や雑誌の報道を振り返ってみると、アナタハン島での比嘉和子が性的に奔放で、それが男たちを刺激して戦わせ“孤島の愛欲”のイメージを強めたことは間違いない。しかし、それは決して「事件」の最大の原因ではない。時代背景と置かれた状況、人間関係がより重大だった。
例えば、この事件の報道では絶えず「終戦を知らずに」という“枕言葉”が使われた。20人のうちの1人が先に脱出したことを報じた1951年6月17日の読売は「アナタハン島の“勇士”投降」の見出しを付けた。だが、それらは真実を言い当てていたのだろうか? 和子も男たちも、米軍が時折投降勧告に来ることを知っていた。置いて行った物資や食料の残りを拾うのが楽しみだったとも証言している。中には日本の家族からの手紙もあった。「アナタハン」によれば、先に脱出した和子から「元夫」の1人に宛てた手紙も届いたという。
週刊朝日1951年7月22日号で兵助丸の機関長・石渡一郎は「アナタハンの七年間、私らの生活を支えてきたものは、結局『必勝の信念』だった」と書きつつ、「戦争はもう終わったのではないかということを誰だったかが言い出したのは(昭和)二十一年の夏ごろだった」と回想している。多くが「戦争は終わっているのかもしれない」と考えた。それでは士気が上がるわけがない。それでも出て行かなかったのは、「戦陣訓」が生きていた当時の時代状況と心理から、出て行けば仲間に殺されると思っていたことと、「島での生活は表に出せない」という後ろめたさがあったからではないか。
「アナタハン」のあとがきで丸山通郎は「私たちを、まるで英雄みたいに大騒ぎをして迎えてくれましたが、いまだにその理由をしっかりと理解できずにいます」と述べている。