孤島に取り残された32人の男と1人の女の共同生活という敗戦秘話、「アナタハンの女王」事件。サイパン島の北50kmに位置するアナタハン島での出来事をめぐって、メディアはセンセーショナルに取り上げ、戦争の話題に飽きかけた人々の好奇心をかき立てた。
一方、島からの帰還を果たした男たちも、スキャンダラスな手記を発表するなど熱狂の渦は広まる一方だった――。
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地元劇団の舞台では「アナタハンの女王蜂」
沖縄に帰った和子は、夫が既に別の女性と結婚。子どももできていることを知り、自らの生計を立てるために複数の料亭で働いた。評判を呼び、料亭は連日、彼女目当ての客が押し寄せたという。地元劇団の舞台では「アナタハンの女王蜂」が上演された。
1951年11月1日に山形新聞夕刊に載った、共同配信と思われる記事は「俗悪好奇の目に悩む ロビンソン女性版その後 歓楽街に泣く“アナタハンの女”」の見出しで、近況を報じている。その中で彼女は「アナタハンの女王様なんていわれると心外でしょう」と問われて「仕方がないことです」と寂しそうに答えている。記者は「こうしてみていると、ごく平凡な一女性にしかすぎない」と評した。
翌52年8月13日の沖縄タイムス朝刊には、真和志村(現那覇市)でレストランの開店を急いでいる記事が写真付きで載った。店の名前は「アナタハン」。実兄ら親族と話し合い、「どうせ世間に売った名前だ。この名でレストランのマダムとして成功させよう」ということになったという。同年11月20日には実兄と支援者の詩人・伊波南哲とともに船で上京。「島で死んだ人たちのためを思って、私に対する非難を黙って聞き逃してきた。しかし、いつまでも静まらないので何もかもぶちまけ、あとくされのないようにしようと思って内地へ来た」と語った。
「私のことで殺されたのは2人しかありません」
その言葉を裏書きしたのが、サンデー毎日1952年12月7日号の記事「アナタハンの真相はこうだ」だろうか。肝心な部分は自分に都合のいい内容になっているが、最も彼女の本音に近いように思える。
「私は悲しい運命を背負った女王蜂」という見出しは、編集部のアイデアだろうが、彼女は「自分は被害者」と強調。「世間に広がっている話には多くの誤解と誇張があります」「私のことで殺されたのは2人しかありません」と語った。
あとは「酔ったりけんかをしたりで殺し合ったものや、事故や急病で死んだものばかりです」。島での「夫」は4人だったと告白。島で2人目の「夫」となる男が、飛行機の残骸から手に入れたピストルで最初の「夫」菊一郎を脅して和子を奪ったと明かした。その際、和子と菊一郎は琉歌(沖縄の伝統歌謡)の相聞歌を即興で交わしたといい、その両方の歌を歌い上げた。