さらに、これまでも指摘されているように、比嘉和子が「沖縄人」だという問題がある。1903年、大阪で開かれた内国勧業博覧会での「学術人類館」で「琉球人」が「展示」された例からも分かるように、沖縄の人々への蔑視は長く根強い。菊一郎や和子に対する視線にそうした意味はなかったのだろうか。

 和子について、後から島に来た男たちは自分と同じ日本人だと思っていたのだろうか? 当時、アジア各地で見られた現地妻に近い意識があったのでは、という疑問が湧く。さらに、経緯から見ると、そもそも南洋興発社員の夫とも正式に結婚していたのかどうか……。

「英雄あつかいがなかった以上に、むしろ見せものあつかい」

アナタハン島全景図(「アナタハンの告白」より)

 作家・中野重治は「小説新潮」1977年2月号のエッセー「アナタハンの女」で、東京・新宿で比嘉和子を見たときのことを書いている。「アナタハン」を取り上げた舞台の特別出演で、和子が島の生活について話した。「『……そんなわけで、きまった人はいましたが、ほかの人たちとも床をともにしました……』。そのとき、うしろの方で『きたないぞォ』と叫ぶ男の声がした。青年の声ではなかった。舞台の女は一瞬つまったようだった。惑乱の影が走ったのかもしれない」。

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 中野は、横井庄一氏や小野田寛郎氏と比較して「英雄あつかいがなかった以上に、むしろ見せものあつかいがあったかと思う。そしてそこに、男十人ばかりのなかに女一人ということでいくらか下種(げす)張った思わせぶりがあったかと思う。何となしそこに不当なものがある。そんな気がする」と述べている。控えめだが、まともな反応なのではないか。

一瞬、自分の心の闇をさらけ出されるような恐怖感

 アナタハン事件が、膨大にあった戦争の悲劇の一幕だったことは間違いない。比嘉和子については、本人の無知や性的放埓、自己の美化があったとしても、そこに広い意味での女性差別が存在したことも疑いがない。この話に興味を引かれる半面、どこか「恐ろしさ」を感じるのは、きっと「自分がそのとき、島にいたらどうしていただろう」という疑問が頭をかすめるからだ。一瞬、自分の心の闇をさらけ出されるような恐怖感がある。それが「猟奇的な関心」と背中合わせでこの物語が人を引き付ける理由だろう。

 そう考えていくと、「女王(蜂)」とは、実際とは相当懸け離れたイメージのように思える。それを「女王(蜂)」と呼んだのも、世の男性の多くが受け入れてはやし立てたのも、そもそも戦争を引き起こして女性や子どもに多大の悲しみと苦しみを与えたことへの、男たちの後ろめたさの表れだったのでは? そんな気がする。

【参考文献】
▽大野守衛「独領南洋諸島事情」 外務省通商局 1915年
▽菅野聡美「アナタハンの女王と伊波南哲」 琉球大学文学部「政策科学・国際関係論集」2013年
▽鷹橋信夫「昭和世相流行語辞典」 旺文社 1986年
▽丸山通郎「アナタハン」 東和斜 1951年
▽丸山通郎・田中秀吉「アナタハンの告白」 東和社 1952年
▽田中純一郎「日本映画発達史4」 中公文庫 1976年
▽下川耿史「昭和性相史 戦前・戦中篇」 伝統と現代社 1981年
▽中野重治「アナタハンの女」 小説新潮1977年2月号