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「僕らはきっと 幸せになるために 生まれてきたんだって思う日があってもいいんだよね」(『immature』)や「僕達は幸せになるため この旅路を行くんだ」(『Voyage』)と歌ったかと思えば「今更幸せの定義なんて 語る資格などどこにも残ってない」「私には幸福な結末など 似合わない事も誰よりわかっている」(『HAPPY ENDING』)と歌う姿がある。頑丈になりすぎた小さな身体に、あらゆる強い感情と正義が混在している。それらは溶け合えず、割り切れないままで、煌びやかなステージが全うされ続ける。ちょうどいいところではやめられなかった歌姫のバチバチの悲哀。かっこよくないところまで見せてくれるのが、本当に美しい。いやマジで、他に誰が浜崎あゆみ20年やれますか? 無理だからね!

 私は未就学児の頃からあゆのことが大好きだったけれど、田舎に生きているとコンサートに行くという発想がなかった。上京してから初めてコンサートに行って号泣したときは、もうあゆを好きになって15年くらい経っていたと思う。浜崎あゆみで居続けてくれて、ステージに立ち続けてくれて本当にありがとうと思った。

<東京レインボープライド2018・浜崎あゆみスペシャルライブ>MCで感極まる浜崎あゆみ ©時事通信社

 ツイッターで毎日のようにライブの告知をしているアイドルの自分としては、今自分の事を好きになってくれた人が会いにきてくれるのは15年後かもしれないという可能性を考えると途方もないが、それでも誰にどのタイミングで「いつか」が来ても活動し続けていたいと志すのだった。しかも、どこまでも自分のままでいることに妥協をしないままで。それが浜崎あゆみに恥じない人生を送るという事ですからね。ああ、日本国民今すぐ手のひらを返してあゆ再評価の流れ、突然来てほしい。批評や言論に見逃され続けてきた浜崎を照らし直す方法を考えたい。

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気になるのは、「M」に対する「N」の存在

 最後に、どうしても気になるのは「M」に対する「N」の存在についてである。マサを想って書かれた楽曲の歌声の切迫具合と、Nを思って書かれたと察せられる楽曲の歌声の優しさの対比は鮮やかなものだ。

「N」はひたすら美しさや眩しさを感じる存在──『JEWEL』であって、例えば宝飾ならば身につけて自分を美しくしてくれるけれど、美しく輝いて見える人と対峙し続けるのは自分の心の醜さや陰を浮き彫りにされ続けるということでもあるから、光が眩しい時に目を閉じるようにして、離れるしかなかったということなのかな……って10年くらいめちゃくちゃ勝手に思っているのだがどうなんだろうか。事務所的にありえないけどいつか『N 僕の大切な宝物』出版希望です。でもこれ以上やらなくて大丈夫です。浜崎さんの幸せをいつも願っています。

M 愛すべき人がいて

小松 成美

幻冬舎

2019年8月1日 発売