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勝機があるとしたら「30対29のような、打ち合い」

 初回からピンチが続いても國保監督は誰もブルペンで準備させず、2人目の2年生左腕を投入したのは体勢が決した7回だった。

 試合後、國保監督に「勝機があるとしたらどのような展開を想定していたか」――そんな質問が飛んだ。表情を変えず、國保監督はこう答えた。

「30対29のような、打ち合い」

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 多くの報道陣は冗談のように受け流していたが、私はとても笑う気になれなかった。「エースで4番」をスタメンから外し、30点取らなければ勝てないと本気で考えていたなら、もはや野球ではない。はなから試合を投げ出していたようなものだ。佐々木を起用しないにしても、他に戦い方があったように思うのである。

岩手大会で熱投する佐々木投手 ©共同通信社

「もうちょっと相談して欲しかった」

 試合前に、國保監督は佐々木に先発では起用しないことを伝えていた。だが、投手としても野手としても、起用するつもりがなかったことは伝えていない。それは他のナインに対しても同じだった。それゆえ、大船渡の選手たちは佐々木の登板を信じ、できるだけ負担のない形でマウンドに上げようと、花巻東に食らいつこうとしていた。起用法に関して、選手たちへの説明とコミュニケーションが明らかに不足していた。

 公立の大船渡は84年の春夏甲子園に連続出場し、選抜では岩手県勢として初めてベスト4に進出。旋風を巻き起こした。当時、大船渡の三塁を守っていた父を持つ主軸の木下大洋は「もうちょっと相談して欲しかった」と指揮官に対する素直な感情を吐露し、こう続けた。

「昨日、朗希も129球を投げて、身体に張りがあったとは思うんですけど、朗希が『投げたい』『みんなで甲子園に行きたい』と言っていたんで……やっぱり投げさせて欲しかったというのは正直なところあります」

 準々決勝で先発した大和田健人が、ブルペンに向かったのは5回だった。

「(投手起用に関して監督から説明は)ないです。ブルペンに行ったのも、監督の指示ではなく、自分の意思で準備しました」