佐々木もどこかで監督に起用の意思がないことを察したのだろう。ベンチでは座りながら声援を送ることが多く、ブルペンに向かうどころか、キャッチボールさえやらなかった。
「高校野球をやっている以上、投げたいという気持ちはありました。(投げられなかったことよりも)負けたことが悔しいです」(佐々木)
佐々木の将来とナインの夢は両立できなかったのか
決勝までの5試合中、4試合で435球を投げていた佐々木の右腕がどんな状態にあったかは本人にしかわからない。「江川卓以来」とも「数十年にひとりの怪物」とも賞賛される令和の怪物を、登板過多による故障から未然に守ったという点で、國保監督の判断は高校野球に一石を投じる英断だったかもしれない。だが、すべてを独断で決めたのならば、ナインが共有していた甲子園の夢を、指揮官自らが奪ったのと同じである。
甲子園の歴代最多勝を誇る、智弁和歌山の元監督・高嶋仁氏は「どうこう言える立場にない」と前置きした上で、こう話した。
「僕なら選手の“今”をとる。あそこ(大船渡)の監督さんは“将来”をとった。それだけのことやと思うんです。しかし、選手はそれで納得しているのか。その点が引っかかります。僕やったら、決勝にいたる過程でできるだけ使わないようにして、万全の状態で決勝に登板させましたね」
準決勝から決勝までの間に、佐々木が右肩や右ヒジの違和感や痛みを訴えていた可能性はあるかもしれない。今秋のドラフトを見据えて、監督と佐々木との間で、肉体の異常を秘した上で登板を回避した――こうした事実が隠されていたのなら、國保監督の迷采配にも納得はいく。しかし、報道陣には明かさずとも、他のナインには伝えても良かったはずだ。
佐々木の負担を考えるなら、準決勝では温存し、決勝の相手である花巻東戦にぶつける。これが佐々木の将来と、甲子園出場という仲間達の夢を両立させる、唯一の方法ではなかったか。