「花道とか、損得とか、そんなものは論外だよ」
じつは会見を前に官房長官の竹下登(のちの首相)は、テレビを通じて国民に直接話したいという佐藤の意向を受け、内閣記者会とのあいだで、新聞記者は会見室に入るものの質問はしないと話をつけていた。だが、佐藤は、記者が集まっていることに「約束がちがうじゃないか」と、竹下や山中貞則総務長官らをにらみつけると、自ら席を外したのである(※4)。このあと、山中のとりなしで佐藤は再び会見室に戻った。しかし今度は、先の首相の発言は絶対に許せないと、内閣記者会の代表幹事が抗議する。これに対し佐藤は「出てください、それなら。かまわないですよ。やりましょう。出てください」と机を叩いた(※3)。はたして記者たちは一斉に退場し、佐藤はテレビカメラに向かって一人で語るという異常事態となる。
世間の予想どおり沖縄返還の実現を花道に退陣を表明していれば、佐藤はもっと国民に惜しまれながら見送られたはずである。家族からもこれについて退陣後に蒸し返されたことがあったが、佐藤は怒って「一国の宰相というものはな、自分がやめる、その瞬間まで、やめるということを口にすべきもんじゃない。それを口にすることによって国全体が揺れ動くんだ。外国への影響もある。花道とか、損得とか、そんなものは論外だよ」と反論したという(※2)。
(2)吉田茂(2616日)も「引き際を誤った」
佐藤栄作を政界に引き入れた師である吉田茂もまた、1948年10月15日の第2次内閣発足から6年2ヵ月(第1次内閣を含めた通算では7年2ヵ月)の長期政権を維持しながら、その引き際を誤った。
吉田は、1951年9月、サンフランシスコ講和条約に調印し、敗戦後6年以上続いた連合国の日本占領にピリオドを打った。調印を終えた彼は、祝いのシャンパンを口にしながら「これで御用済みとなって、あとは楽にさせてもらえると有り難いんだがなあ」とつぶやいたという(※5)。実際に講和条約調印を花道に勇退していれば、吉田は国民から英雄視されていたかもしれない。しかし、吉田はその後も政権の座にとどまり、その独断的な政治姿勢から「ワンマン」などと称された。