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「佐藤栄作の逮捕を阻止」国民から反発される吉田茂

 講和条約調印と前後して、戦後、連合国総司令部(GHQ)の指令で公職追放となっていた政治家たちの追放が解除され、続々と政界に復帰する。なかでも終戦直後の1946年、組閣直前に公職追放され吉田に政権を譲った鳩山一郎は、1951年に自由党に復帰すると反吉田勢力を形成し、吉田と激しく対立した。1953年に、吉田の議会での「バカヤロー」発言を機に左右両派社会党が内閣不信任案を提出すると、鳩山ら反吉田強硬派22人が自由党を脱党し、賛成票を投じたため可決される。このとき鳩山らは同じ「自由党」を名乗ったが、総選挙後、第5次内閣を発足させた吉田の説得で一部を残して年内には復党した(復党しなかった三木武吉らは「日本自由党」を名乗る)。

 だが、そこへ来て翌1954年1月、海運・造船業界から保守政界への贈賄をめぐる造船疑獄が発覚。4月には、最高検察庁は捜査の最終段階として、自由党の幹事長だった佐藤栄作の収賄容疑による逮捕許諾請求を決定した。だが、法務大臣の犬養健は吉田と副総理の緒方竹虎の意向に沿って、検事総長に対する法相の指揮権を発動して佐藤の逮捕を阻止する。すでに吉田内閣に嫌気が刺し始めていた国民は、こうした強引なやり方にますます反発を募らせた。

1954年11月、ニューヨークを訪れ、ダグラス・マッカーサーと再会した吉田茂 ©AFLO

 自由党は指揮権発動直後に出された内閣不信任案をどうにか乗り切ったものの、次の会期の開会を控えた11月、自由党鳩山派、改進党、日本自由党の計120人は「日本民主党」を結成して、吉田の倒閣をめざした。12月6日には民主党と左右社会党が共同で内閣不信任案を提出し、人数からいって可決は必至だった(※6)。

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 しかし、何としても鳩山に政権を譲りたくない吉田は、ここにいたってもなお衆院解散に打って出るつもりでいた。12月6日夜には、吉田の後継総裁と目された緒方竹虎が、世論や党論にしたがって内閣総辞職を求めるも、吉田は聞き入れなかった。翌7日朝、衆院本会議を前に公邸で行なわれた自由党の最高首脳幹部会議でも、緒方は「自らの政界引退も、党の分裂も辞さない」との覚悟であらためて解散に反対し、集まった大半の党実力者・閣僚も同調する。政治顧問の松野鶴平は「総裁あっての党ではない。党あっての総裁であることを知らないのか。解散をすれば党は壊滅するのだぞ」と吉田を怒鳴りつけたという(※5)。