1ページ目から読む
4/4ページ目

「総理をやめて、大磯でゆっくり本でも読むか」

 吉田は「考える」と言って書斎に引きこもったあと、緒方を呼び出して解散を納得させようとするも無駄であった。彼の憤怒は頂点に達し、続いて書斎に入ってきた幹事長の池田勇人に対し、「緒方君を罷免してしまえ」とまで口にしたという。しかし池田は「あなたが後継者に選んだ緒方さんを、罷免したのではあなたのコケンにかかわります」と押しとどめ、「こうなると総辞職もやむをえません」と涙声で言った。ついに吉田は娘婿の衆院議員・麻生太賀吉を呼ぶと、総裁辞任届を書くように命じる(※7)。吉田は辞表を机に置いて私邸のある大磯に戻り、残された者たちによって総辞職が決定された(※8)。去り際に吉田は、「では(総理を)やめて、大磯でゆっくり本でも読むか」と言ったとも伝えられる(※5)。

(3)伊藤博文(2720日)から歴代1位・桂太郎(2886日)へ

 長期政権の歴代4位である伊藤博文は、日本最初の内閣である第1次以降、通算2720日、4度にわたり政権を担当した。しかし最後の第4次内閣(1900年10月19日~1901年6月2日)はわずか7ヵ月で終わる。伊藤は藩閥勢力の一角を担いながら政党の力に気づき、立憲政友会を創設、直後に発足した第4次内閣は外務大臣・陸軍大臣・海軍大臣をのぞく全閣僚が政友会会員という布陣となった。だが、政友会出身の大臣による閣内不一致から、伊藤は辞表を提出、党総裁も西園寺公望に譲った。

初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣を務めた伊藤博文 ©文藝春秋

 伊藤の後任首相には、陸軍大臣だった桂太郎が就いた。桂内閣は、山県閥(藩閥勢力の有力者・山県有朋を中心とする非公式の派閥)を中心とする非政党内閣だったが、政友会の西園寺公望と妥協しながら、10年以上にわたって交互に政権を担当する。いわゆる「桂園時代」である。だが、桂が最後に発足させた第3次内閣(1912年12月21日~1913年2月20日)は、尾崎行雄や犬養毅ら政党政治家が「藩閥打破、憲政擁護」のスローガンのもと民衆をも巻き込んだ第1次護憲運動により、わずか2ヵ月で崩壊に追い込まれた(大正政変)。

ADVERTISEMENT

 しかし、桂は第1次護憲運動のなかで自らも政党結成を進めていた。桂自身は志半ばで亡くなったが、1913年12月には立憲同志会が発足する。のちに憲政会となった同党は、大正末から昭和初期にかけて政友会とともに政党内閣時代を実現した。

通算在任日数、歴代1位(2886日)の桂太郎 ©文藝春秋

 思えば、吉田茂の内閣総辞職から1年も経たない1955年11月には、自由党と日本民主党による保守合同が成り自由民主党が誕生、同年には社会党も左右両派が統一し、ここに「55年体制」が始まった。そもそも自由・民主両党の合同を妨げていた最大の要素は、長きにわたる吉田・鳩山の確執であったため、吉田の引退でそれに蹴りがつき、合同への条件が整ったとする見方もある(※6)。

 佐藤栄作も、米中接近という国際情勢の新局面を受けて、政権末期に日中国交正常化を水面下で模索し、次の田中角栄内閣に託すことになった。ここにあげた首相たちは、辞め方はけっして潔くはなかったが、辞めることで新たな体制づくりに貢献する結果となった。ひるがえって安倍首相の頭には、どのように政権を幕引きし、後継者に何を残すのか、ビジョンはあるのだろうか。

※1 「産経ニュース」2019年4月10日
※2 佐藤寛子『佐藤寛子の宰相夫人秘録』(朝日文庫)
※3 NHKアーカイブス「長期政権の終えん 佐藤首相退陣」
※4 服部龍二『佐藤栄作 最長不倒政権への道』(朝日選書)
※5 原彬久『吉田茂 尊皇の政治家』(岩波新書)
※6 石川真澄『戦後政治史 新版』(岩波新書)
※7 戸川猪佐武『昭和の宰相 第5巻 岸信介と保守暗闘』(講談社)
※8 五百旗頭真『日本の近代 第6巻 戦争・占領・講和』(中央公論新社)

 このほか、伊藤之雄『伊藤博文 近代日本を創った男』(講談社学術文庫)、瀧井一博『伊藤博文 知の政治家』(中公新書)、中公新書編集部編『日本史の論点』(中公新書)、加藤聖文『国民国家と戦争 挫折の日本近代史』(角川選書)、小林和幸編『明治史講義【テーマ篇】』(ちくま新書)などを参照した