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「主筆室でポックリ死んで、秘書に発見される」 渡邉恒雄が明かした“理想の死に方”

読売新聞主筆・渡邉恒雄『私の大往生』インタビュー

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政治部長だった頃、食道がんと診断された

渡邉 1997年、前立腺がんと診断され、全摘出手術を行った渡邉氏。しかし、この時は死を意識しなかったという。

 僕はこの時、すでにがんについて散々勉強して、がんは治るものだという確信を持っていた。

 実は、政治部長だった頃、読売診療所で食道がんと診断されたことがあるんだ。5、6軒の病院を回って、11人の医者に診てもらったが、口をそろえてがんだという。これはもうお終いだと思ったね。40年近く前だから、がんが治るなんて時代じゃない。がんイコール死だった。

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 それで遺書を書いて、女房に言い渡して、子供はこうやって育てろよ、と。親友に電話して「ウチの倅のこと、将来よろしく頼むぞ」と伝えて、身辺を全部整理した。それで全て終わって夜11時頃、寝室で女房と一緒に寝て、手を握ったわけだ。そしたら女房が、「あなた妙な緊張状態にあって、私の言う事全然聞いてくれなかった。もう一度言うわ。秋山洋先生という虎の門病院の消化器外科部長(後に院長)は食道がんの大家よ」とこう言うんだ。僕はこの人を知らなかった。

 すると「知らないわけないじゃないの、同じマンションにいたのよ、ウチの息子と秋山先生の娘は砂場で泥んこになって遊んでた。私は奥さんをよく知ってる」って言うんで、女房が夜遅くに電話をかけてくれた。

 それで秋山先生が出てくれて、僕が事情を説明したら、明日からドイツ出張だが、成田発午後4時だから、午前9時に虎の門病院の玄関に来てください、お迎えに出ます、と言ってくれた。あまりの親切にビックリしたね。それで翌日、造影剤飲んだり、3時間かけてありとあらゆる検査をしてくれた。すると先生は「あなたの身体のどこにもがんはありません。これは誤診です」と言ったんだ。もう天にも昇る気持ちだったな。それから僕はもう、がんを恐れなくなった。

 20何年か後に僕に前立腺がんの全摘手術を施してくれたのは、垣添忠生先生という日本で前立腺がんの全摘手術をした最初の1人だった。

 彼が何故その技術を持っていたかというと、中曾根康弘さんが首相の時に「対がん十か年総合戦略」というものを謳ったんです。その予算で、前立腺がんの名手が集まるミネソタ州のメイヨー・クリニックという所に留学したのが垣添先生だった。

 だから中曾根さんには、「あなたの対がん十か年総合戦略のおかげで僕の命は助かった」と言っているんだ。