『ある一生』(ローベルト・ゼーターラー 著/浅井晶子 訳)

 ほぼその生涯をアルプスの山麓で過ごした男を描いた『ある一生』の主人公アンドレアス・エッガーは、孤児である。孤児であることは、近代小説の主人公たる一要件だった。ディケンズの『オリバー・トゥイスト』のオリバーや、ウジェーヌ・シューの『パリの秘密』のマリがそうだ。その点で、エッガーは、近代小説の継承者といってもよい。しかし、単なる継承者ではない。

 なぜか。ディケンズのオリバーやシューのマリは、単なる孤児ではない。彼らの親は、名家の出である。つまり彼らは貴種なのだ。

 孤児にして貴種、こうした近代小説の主人公の属性をフロイトは後に神経症のファミリー・ロマンスと呼ぶことになるが、この、どこかに貴族や富豪である本当の親がいるという幻想は、神経症者だけのものではない。近代資本主義社会を生きる人間通有の欲望といってよい。われわれ近代人は、今でなく未来に、ここではないどこかに、よりよい人生があるはずだと思って生きているからだ。ファミリー・ロマンスとは、そうした欲望をわかり易い形で物語化したものだ。

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 しかし、エッガーは違う。貴種ではない孤児である。ゆえにこうした欲望とは無縁だ。エッガーは、小説の終盤で「自分の人生はだいたいにおいて決して悪くなかった」と語る。この言葉は、エッガーが、二十一世紀に相応しい新しい小説の主人公であることの宣言と読める。

 愛するマリーとの出会い、彼女へのプロポーズの場面はとりわけ美しく、彼に訪れた幸いの大きさを余すことなく伝える。エッガーの目に映るアルプスの風景描写は魅惑的で、ここだけでも本書には一読の価値がある。だが、注意すべきは、エッガーには、そうした幸福な経験があるから、自己の人生を肯定的に語るのではないということだ。

 孤児のエッガーを引き取った伯父による理不尽な折檻、その折檻で足に障害を抱えたこと、愛する者との突然の別れ、合計で八年に渡る酷寒の地での従軍と収容所生活、高峰での命がけの仕事等々。それら過酷な経験は、彼が体験した幸福によっても到底購(あがな)われるとは思えない。にもかかわらず自身の人生を「決して悪く」はないと語る。エッガーは、われわれの持つ、今ここにないものを求めるファミリー・ロマンスの呪縛を免れているからだ。

 だからこそ、傍目(はため)からは幸福をはるかに上回る不幸に見舞われたかに見える、自身の人生を肯定的に語ることができる。そうしたエッガーの有り様は、超格差社会に息苦しさを覚えている人々を本作へと誘うだろうし、エッガーを二十一世紀の新しい孤児小説の主人公へと導いている。

 ただ、読者がエッガーのような人生に憧れるとしたなら、その願望自体、今の自分にないものを求めるという近代人の宿痾の現れとも言えるのだが。

Robert Seethaler/1966年、オーストリア生まれ。作家、脚本家、俳優。本書は2015年にグリンメルズハウゼン賞を受賞。ブッカー国際賞、国際ダブリン文学賞のショートリストに入り高く評価されている。日本語訳された作品に『キオスク』がある。

ちばかずみき/1961年、三重県生まれ。大東文化大学文学部教授。『現代文学は「震災の傷」を癒やせるか』など著書多数。

ある一生 (新潮クレスト・ブックス)

ローベルト ゼーターラー,浅井 晶子(翻訳)

新潮社

2019年6月27日 発売