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「性的な関係を含む恋愛」と「性的な関係を含まない連帯」

 普通に考えれば、「凪のお暇」の話なんだから、凪がきっかけで慎二は自分自身と向き合う休みを手に入れる……というストーリーにするのが穏当だろう。しかしこのドラマはそうしていない。慎二は、自分の彼女だった異性の凪ではなく、ともすれば恋敵ともいえる同性のゴンとの関係を形成する。1週間の夏休みをとった慎二は、その間ゴンの部屋にいることになるのである。

ゴンを演じる中村倫也 ©時事通信社

 さらに、ゴンは行きつけのバーで、凪についてこのような会話を交わす。

「まさか、凪ボーイのこと、2人でシェアでもするつもり?」 

 

「え?シェア?なるほど……。」 

 

(『凪のお暇』TBSドラマ第8話)

 少し解説をすると、アメリカのジェンダー研究者であるイヴ・セジウィックは「ホモソーシャルとは、女性を共有することで男同士の絆を強めている関係性だ」と述べたが、凪・慎二・ゴンの間にはそのような関係性が横たわる。つまり、人々のつながりにも「性的な関係を含む恋愛」と「性的な関係を含まない社会的な連帯」の両方があるということなのだが、『凪のお暇』は一見前者を描いているように見えて、実は後者を描いた物語ではないか……と指摘したい。

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慎二とゴンの友情を描きたかったわけではない

 もちろんセジウィックの提示したホモソーシャルとは基本的に女性蔑視が背景にあるもので、『凪のお暇』において必ずしも当てはまるとは言えないが、どちらかというとセクシャルな関係ではなくソーシャルな関係……つまり、恋愛ではなく同性同士の心の触れ合いこそにドラマは焦点を当てたのである。

©iStock.com

 もちろんこのような関係性が生まれたのは一瞬だけで、慎二とゴンは一週間の「夏休み」を解体するのだが、ドラマの脚本が原作漫画にない描写を足すにあたって、慎二とゴンの関係が足されたことは注目に値するだろう。

 しかし、ならば『凪のお暇』は慎二とゴンの友情を描きたかったのだろうか? そうではない。この物語が、異性愛規範に則った恋愛の関係ではなく、社会的なつながり、「お隣りさん」や「たまたま知り合った友人」こそが人をすくう、ことを描いた物語だったからだ。

 だからこそ、慎二にもゴンという「たまたま知り合った同性の友人」が救済人として現れる。『凪のお暇』は、恋愛ではなく連帯こそが自分をすくうものである、ということを繰り返し描く。むしろ恋愛が入り込むと「うまくいかない」状態になることを描く一面もある(慎二の会社の同僚である市川円や、会社時代の凪とゴンの関係性を見ても明らかである)。