『夢であいましょう』(NHK)、『8時だョ!全員集合』(TBS)など、人気番組を多数手掛けた伝説の放送作家・大倉徹也氏。同氏が全力で駆け抜けた“テレビの時代”を、スターとの思い出を中心に振り返った自叙伝『放送作家の時間』が発売された。今年2月に亡くなった大倉氏にとって「最後の記録」となった同書から、「『8時だョ!全員集合』と私」の全文を特別公開する。

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 リリオ・リズム・エアーズが解散するので、彼らのラジオ番組が終わるとわかった時、ニッポン放送のプロデューサーから聞かれた。

「ドリフターズというグループを知ってるか?」

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 そのころ『8時だョ!全員集合』(以下『全員集合』)はまだ始まっていなかったが、『進め!ドリフターズ』というようなタイトルのテレビ番組を見たことがあるような気がして、そう答えると、

「実はリリオのあとをドリフの番組にすることになってるんだ。ドリフも5人だからあんたなら書けるだろうと思うので、よろしく頼むよ」

『8時だョ!全員集合』の一コマ ©共同通信社

 ありがたい話だ。しかし私は書く前に必ず本人たちに会うことにしている旨を伝えると、そのころドリフは、テレビ以外にも当時流行していたジャズ喫茶に出ているという。そこですぐに観に行った。それがドリフと私との出会いである。 

 早速彼らの番組を書き、OKが出て、週1回の番組を私が一人で書くことになった。ジャズ喫茶で見たヤリトリを基に書いた会話はすんなり受け入れられて、スタジオでの録音時に台本を読むテストでメンバーがトチルと、リーダーの長さんこといかりや長介が「見ろ、だからこんな台詞を書かれるんだよ」と怒っていた声を今でも思い出す。

 調べると『全員集合』は1969(昭和44)年10月に始まっている。

©文藝春秋

 しかしラジオ番組がいつ終わったかは台本を残していないのでわからないが、その後、私が『全員集合』の「作・構成グループ」に参加するようになったのは、台本によれば42回目からだ。週1回の番組だからスタートして1年後あたりだろう。だがグループに入る前に、私が一人で書いた回があるのだ。

 こまかい話だが、あの番組ファンだった年代の人はスタート時から毎週土曜日午後8時からの公開生放送だったと思っているだろうが、実はスタートした年の暮れと翌年正月1週目だけは、世間並にドリフを休ませるためにスタジオ録画していたのだ。その録画分を書いたのが私だ。