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2019/10/02

『全員集合』はよく子供番組扱いされたが、現実はそうではない。前述のように観客は親子連れで来ているわけで、親はむろん子供も今で言うシモネタも知っているものだ。だからストリップの音楽と踊りでちゃんと笑ってくれたのだ。

荒井注氏 ©文藝春秋

 けれども私は明らかに苦しんでいた。苦しい時のシモネタ頼みで、度が過ぎて加藤にもたしなめられたことがあるくらいだ。

 苦しんでいたのはメンバーの中にもいた。荒井注サン。

 長さんは1931(昭和6)年生まれ。私より1歳年長だが、号令をかけたり怒ったりするだけだから、そんなに体を動かさない。しかしメンバーは実によく動かされた。

 荒井注、仲本工事、高木ブー、加藤茶。この4人のメンバーの中で最年長が1928(昭和3)年生まれの荒井さん、次が私より1歳年少、33年生まれの高木ブータン。体の動きが一番機敏で体操上手、本名のコーキ(興喜)と呼ばれていた仲本は41年、そして加トちゃんは43年生まれ。

 回によってはゲストコーナーで仲本が主導権を取る体操コントの場合があり、そういう時ブータンの、その名の通りデブでニブイ動きは笑いになったが、マジに体操する荒井サンは私が入った時からつらそうだった。記録によると彼がドリフを離れたのは74年とあるが、それ以前から彼が「みんなの動きについていくのが苦しい」という話を私も聞かされていた。

志村けん氏 ©石川啓次/文藝春秋

 しかし彼が実際に辞めた時には私も長さんの「執念」に負けて、いつとはなしにリハーサル室から足が遠のいた。つまり作・構成グループから「自然消滅」していたので、わが家で録画した『荒井注最後の全員集合』のVTRを今でも残してある。

 その回にはメンバーの「見習い」として志村けんが登場しているが、私の知っている志村は「見習い」以前、例のリハーサル室へ、自分で探した相方と一緒に考えたコントを見せに来ていた。つまりメンバーになりたくて売り込みに来ていたのだ。しかし面白くなかったので黙殺され続けていた。

 ところがゲストコーナーで「オクニ自慢」の唄を、ゲストは真面目に、ドリフはギャグ入りで歌おうと稽古していた時に志村もいて、自分の出身地の唄だという『東村山音頭』を歌い踊った。誰もが言った、「それ、面白いじゃないか」。そして実際に彼がメンバーとして人気が出始めたのは『東村山音頭』からだった、というところまでは私も知っている。

 その志村が今や「お笑い芸人」から「コントの神様」扱いされているのだから、彼の笑いに賭ける執念もリッパというほかはない。