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本人のほうがもっと面白かった
いつでも万里は個性的だった。
プラハでの西洋文化との出会いを通して、姉は論理性、合理性、「笑い」を含む社交性を身につけた。作家生活は通訳論で始まったが、豊富な知識と笑いが評判となり、書くたびに文学賞を受賞してしまう。わたしは、それらの作品を面白く読みながらも、万里の個性はまだじゅうぶんに出ていない、もっと変な人なのに、と内心思っていた。姉は書く範囲を、徐々に広げていった。犬、猫のこと、食べ物のこと、少女時代のプラハのこと等々。2002年、『オリガ・モリソヴナの反語法』で、ついに小説を書くにいたった。ああ、ようやく小さいときからの夢の作家だ、万里の個性が出始めた、と嬉しかった。
あと10年、せめて5年あれば、新しい創作が生まれた、と思う。万里自身の持って生まれた個性、ちょっと特殊な少女時代の体験、五十数年の人生を通して身につけた知見、すべてを大きくくるんで文章に表現する力が備わってきていた。
亡くなる2~3年前、「童話を書こうと思うの」と言ってきたことがある。
「タイトルはねえ、『ういじゃが行く』なの。ういじゃ、こどものときおかしかったじゃない。それを書くの」
ういじゃ、というのは姉のわたしの呼び方だ。でも、万里が言う、おかしな思い出の半分は、実際にあったことではなく、彼女の夢の中の登場人物としての妹、ういじゃがしでかしたことなのだ。きっと万里にしか思いつかない、変てこでばかばかしいおはなしが生まれていたはずだ。ああ読みたかった!
万里の思い出を書いている間、そんなことを夢見ていた。