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AIの歌声は「同時代を生きてきた人の歌と思えない」

 番組には、美空ひばり後援会の女性たちが出ていた。「全国各地の公演にも足を運び、ひばりさんの晩年は裏方として支え、病室にも足しげく通っていた」と説明されていた。年齢に幅はありそうだが、生きていれば82歳の美空さんより若く見えた。途中経過のAIの歌声を、彼女たちが聴くシーンがあった。「違う」と皆が口を揃え、中の1人はこう言っていた。

「ひばりさんの歌を聴くと、ものすごい濃い空気の中にいるような気持ちになるんですけど、空気が足りない」

©iStock.com

 うまさが足りないという指摘だったのかもしれない。同じ歌声を聞いた秋元さんは、「正確に歌っても、感動はさせられない」ということを言っていた。でも私は、「濃い空気」とは同時代感なのだと思った。一緒に生きてきた人の歌と思えない。そう言っているのだな、と。

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 百恵さんの歌を聞く、または脳内で再生する時、私はその時々の自分を思い出している。『絶体絶命』がはやったのは、高校3年の時。「はっきり、片をつけてよ」と歌う百恵さん。受験勉強に身が入らない自分。「このままじゃ、片がつかないよなー」。どんよりした当時の気持ち、はっきり思い出せる。

 取るに足らない記憶だ。でも、そんなささやかな記憶の積み重ねと共に、私の中に百恵さんがいる。一緒に生きていた。時代を共有していた。小さな人生のシーンと共に、心に刻まれる人を「スター」と言うのだと思う。一緒に生きてきたのに、思い出はもう更新されない。そういうスターについて、ずっと考えていた。

スマホも握手会もなかった時代の「ファンの所作」

 美空さんと百恵さんが活躍した昭和には、スマホも握手会もなかった。ファンたるものがすべき所作は、テレビを見て、ラジオを聞いて、レコードを買う、以上だった。そうして、記憶を心に刻んだ。美空さんがデビューしたのは、1949年。「戦後」と共にある美空さんの同時代感は、73年にデビューした百恵さんよりずっと濃いはずだ。「ひばりさんの歌を聴くと、ものすごい濃い空気の中にいるような気持ちになる」。後援会の人の言葉の繰り返しだ。

1980年10月、山口百恵ファイナルコンサート ©︎文藝春秋

 濃い空気に包まれていたのは、ファンだけでない。番組中、『あれから』をニューヨークで作詞する秋元さんが映った。美空さん最後のシングル『川の流れのように』を書いたというカフェで、パソコンを広げていた。放送作家だった30年前、仕事を辞めてここに来て、震えるような気持ちで詞を書いた。ひばりさんが「いい詞ね」と言ってくれて、「作詞家」と名乗ろうと思った。そう語る秋元さん。バブルの真っ只中、秋元さんは美空さんと生きた。