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税制とともに生きて73年

 この本は73年間におよぶ私と税との関わりの集大成になるでしょう。

 1944(昭和19)年、学徒出陣で召集された私は、派兵された外地から命からがら帰国し、郷里山梨の大月税務署へ入りました。

 召集前、旧制横浜高等商業学校(横浜国立大学経済学部の前身)で学んでいた私は、復員したら大学で経済学を学ぼうと思っていました。ところが日本へ戻ってくると、周囲は一面、焼け野原です。東京へ出て経済学を学ぶことなど夢のような話でした。そこで税務署へ奉職したのです。

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 しかし向学の思いはやまず、勤務のかたわら中央大学法学部の夜間部へ入学しました。役所の勤務が終わって東京・神田駿河台の校舎へ向かい、帰宅は混雑を極めた深夜の夜行列車です。若かったとはいえ大変でしたので東京へ異動させてもらい、中野や新宿、そして日本橋の税務署に勤務しながら学問を続けました。1949(昭和24)年に第一回の公認会計士試験(第二次試験)に合格したときは法学部の3年生で、日本橋税務署の法人税調査官でした。

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 1951(昭和26)年に税理士法ができて、税理士試験に合格したときは東京国税局に勤務していました。このときは前夜から窓口にならび、受験番号1番の受験票を手に入れました。その試験で合格したのですから、私は文字通り日本の税理士第1号なのです。

 国税の現場にいたときは、脱税摘発に大いに奮闘しました。毎年のように脱税の摘発件数と摘発額が日本で第1位になり、模範職員として表彰され、二階級特進しました。

 その一方で、国税の現職でありながら、「節税」という言葉を生みだして大騒動を巻き起こしたこともありました。わが国で最初の節税の本『租税節約の話』(中央経済社、1959年)を刊行したのです。

「徴税担当者が課税を減らす方法を公けにするとは何ごとか」と、懲罰にかけられそうになりましたが、税法に違反することは何ひとつ書いていませんでしたので、役所は免職にすることができませんでした。

 脱税など違法なことをしなくても、税法を勉強すると、合法的かつ合理的に、納める税金を安くすることができるのです。節税は納税者・国民の権利であり、英知なのだということを説いたのです。私は「節税」という概念と言葉を生みだした「節税の教祖」として一世を風靡し、世に節税ブームが巻きおこりました。