あいちトリエンナーレが終わった。「表現の不自由展・その後」の閉鎖をきっかけに途中多くの作品が展示中止状態となってしまったが、関係者の努力が実り、会期終盤の10月8日から全面再開。10月14日に無事に閉幕した。多くの議論を呼んだこの芸術祭が、最後にひとつの成果を出せたことをまずは心から喜びたい。

 今回の騒動では、さまざまなタイプの作品批判が見られた。中でも私が気になっていたのは、作品の一部素材に条件反射的に反応して「不謹慎だ」「傷ついた」と主張するタイプの批判である。この記事では、このタイプの批判について考察したい。

作品の一部に飛びつき、批判する人が続出

 今回の騒動では、多くの人たちが作品の表側にある(ごく一部の)部分に飛びつき、それだけを根拠に批判を過熱させていた。キム・ソギョン/キム・ウンソン《平和の少女像》は「慰安婦」をあつかっている点で批判され、大浦信行の《遠近を抱えて Part II》は天皇の肖像が燃やされているという点で批判された(注1)。さらに会期終盤には、Chim↑Pomの《気合い100連発》が「放射能最高!」と叫ぶシーンがあるというだけで批判されたのである(注2)。

ADVERTISEMENT

「表現の不自由展・その後」で展示されていた「平和の少女像」 ©時事通信社

 こうした批判が目を向けているのは、作品の一部をなす、いわば「素材」の部分である。素材だけに着目する批判では「何をやろうとしていたのか」という目的の考察や、「その目的は達成されていたのか」という吟味はまったくなされない。

 なぜわざわざ天皇の肖像を燃やしているのか。なぜ「放射能最高!」という叫び声が出てきており、しかも批判を呼びそうなその言葉がなぜそのまま提示されているのか。そうした考察がなされないまま、「天皇の写真を燃やすなんてけしからん」「被災地をバカにしている」と条件反射で批判する。

 とりわけ今回の騒動では、「表現の不自由展・その後」がすぐさま閉鎖され、展示再開後も抽選に当たったごく一部の者しか作品を見ることができなかったため、多くの人は作品を直に見て検証する機会を得られなかった。よって、「作品は見てないけど、天皇の写真を燃やすのはよくないと思いますよ」と素朴に考えていた人も多いだろう。

 だが本来、素材だけからその作品の主張を決定することはできない。同じ素材を用いて、まったく逆の主張をもつ作品を作ることだってできるのだ。