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 ある映画に国旗を燃やすシーンが出てくるからといって、その映画がその行為を支持しているのか、非難しているのか、それともただ映しているだけなのかは、作品全体を見ないとわからない。重要なのはまず、その素材が作品全体の中でどのように使われ、それによっていかなるメッセージが発せられているのか、をつきとめることである。

 そのメッセージを出すことでその映画は何を達成しようとしており、そのチャレンジに成功している意義ある作品なのか。こうした検証は、さらにそこから先の議論となる。

©iStock.com

肖像を燃やすこと自体は悪いことではない

 誤解されがちなところなので、きちんと述べておこう。天皇の肖像を燃やすことそれ自体は、必ずしも悪い行為になるわけではない(これが悪いとしたら、ごみ焼却場の職員は全員不道徳な人になってしまう)。天皇の肖像を燃やす映像を人に見せることも、必ず悪い行為になるわけではない(これが悪いとなると検証委員会も開けなくなってしまう)。

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 よって、その表現を正当に批判したいのであれば、さらに別の根拠を追加する必要がある。今回、批判者たちのほとんどは、「肖像を燃やすってことは天皇制を批判したいんだろう」と、根拠不十分なままに、自分たちが邪推する意図や狙いを勝手に押しつけていた。

重要なポイントは文脈

 こうした場面では、文脈の指摘は重要なポイントだ。たとえば国旗を燃やしているのは抗議デモのど真ん中でだった、という文脈があるのであれば、それは国に対する侮辱行為として解釈されるだろう。いくら「侮辱の意図はなかった」と言い張っても、空疎な言い訳としか響かない。

「表現の不自由展」の中止について会見する津田大介氏 ©AFLO

 では、映像作品の中に天皇の肖像を燃やすシーンを入れること、「放射能最高!」という発言を組み込むことは、どういう文脈になるのだろうか。少なくとも、目に見える表面的な部分を指摘するだけでは、まだ作品の狙いは特定できないはずだ。

作者の意図はどう効いてくる?

 作者の意図はここでどう効いてくるのだろうか。大浦信行は「天皇を批判するとか冒涜する意図はまったくありません」とコメントを出しているし、Chim↑Pomの卯城竜太も被災地を冒涜する意図はまったくないことを繰り返し述べている。こうした作者の公式声明は、作品の見方を一定方向に傾けるものだ。