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 もしその公式声明に逆らって「いや、それでもこの作品の真の狙いは天皇/被災地を冒涜することなのだ」「作者たちは嘘をついているのだ」と主張したいのであれば、批判者たちはそれなりの根拠を示さねばならない。

 ここでも、「天皇の肖像を燃やしている」とか「放射能最高!という言葉がある」と言うだけでは、根拠としては弱い。先程述べたように、素材それ自体はいかようにも使えるものなのだから。公式声明に逆らって作者(もしくは作品)に「真の狙い」を押しつけようとするのであれば、もっと周到な根拠づけをしなければならない。

ただし、作者が悪しき意図を持っていなくとも……

 もっともこれは、作者の意図によって作品の読み方が決まるという話ではない。作者が悪しき意図を持っていなくとも、自覚なしに不道徳な行為をしてしまうことはありうるからだ。隠れた差別意識がにじみ出ているような作品には、相応の批判がなされるべきだろう。例としてよく挙げられるのは、ジュール・ヴェルヌの『神秘の島』(1874)である。

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 この作品は黒人奴隷制度を批判する調子で書かれており、ヴェルヌ自身も奴隷制度反対の立場を表明していたものの、ナブという黒人キャラクターの描かれ方に黒人への偏見がにじみ出てしまっていた。こうした作品は、作者の意図を超えて批判されることになる。

©AFLO

 では今回問題となった作品たちは、「作者がはっきり意図を説明していたにもかかわらず、隠れた偏見が意図を超えてにじみ出てしまったケース」に当てはまるのだろうか。

 これこそ、作品解釈・作品評価として議論可能なところだろう。いずれにせよ、もし「偏見がにじみ出てしまった悪しき作品」という解釈を出そうとするのであれば、素材を指摘するだけでは根拠不十分だし、作品を擁護する側に立つとしても、作者の発言だけを見ていてはいけない。

 どちらの立場に立つにせよ、必要なのは、一部の素材だけでなく作品全体を見ること、さらには制作背景や時代状況など各種要素を吟味し、自説を支えるための根拠を示していくことだろう。電凸の音声(注3)や河村市長のインタビューを見るかぎり、そうした根拠を掘り下げようとする姿勢は皆無だった。

問われる主催者側の責任

 今回のトリエンナーレで残念だったのは、オープン3日後に展示中止が決まり、展示再開後も少数の当選者しか現場を見ることができなかったことだ。

 展示を見る機会が開かれていれば、浅はかな批判には「落ち着いてもう一回作品を見ましょうか」という提案もできただろうし、より周到な批判が出てきていたかもしれない。作品解釈や展示法の是非をめぐって、さらにはこうしたテーマをあつかう作品を規制してきたことが正当だったのかについても、もっと多くの人が議論に参加できたはずだ。