もっとも、今回の騒動で怒った人、傷ついた人が数多くいたのは事実だ。その怒りや悲しみが誤解からくるお門違いなものなのであれば、その感情は作者や主催者を批判する根拠としては弱いが、とはいえ、問題を掘り下げて考えることに慣れてない人たちをうまく引き寄せることができなかったのであれば、挑発表現としては失敗だ。
市民参加型の大型芸術祭で挑発的な問題提起をやるのであれば、人を引き込む工夫がそれなりに求められる。芸術だからといって、誰もが(芸術関係者ですら)真摯に見てくれるわけではないのだ。
「燃えやすい素材」を表現者たちが扱わなくなったら
挑発的な問題提起は、社会にとって重要なものだ。ジャーナリズムとはまた別のやり方で人々を引き込み、問題を考えさせること。これは現代芸術に求められる重要な役割なのである。
「芸術にそのような役割は求めてない!」というのはそれはそれでひとつの芸術観であるが、問題提起的な作品として高く評価されている作品は事実として数多く存在する。そもそも社会風刺的な表現を完全に排除した表現分野というのはほとんどないのではないか(幼児向け絵本とかはそれにあたるかもしれないが)。
度量の狭い不寛容文化が広まり、「燃えやすい素材」
「いったん挑発を受け止める姿勢」を育てるべき
挑発的な作品を見たときは、条件反射で否定せず、「なぜこんなことをわざわざやっているのか」を考える。この風潮をもっと育てていくべきだ。
挑発されたと感じるのであれば、その作品がターゲットとしているのはあなた自身かもしれない。とりわけ問題暴露的な作品において、いったん挑発を受け止める姿勢は重要だ。なぜなら、こうしたケースで条件反射的に批判する癖をつけてしまうと、複雑な問題を掘り下げて考えることができなくなってしまうからだ。
これは挑発表現を批判するなという話ではない。批判するのであれば、相手の目的意識をきちんとふまえた上で「その挑発は余計ですよ」「工夫として失敗してますよ」などと反論しましょうね、という話だ。公的支援が適切かという論争は、こうした作品検討の後でやるべきである。
今回、立場ある政治家たちですら、この段階に進まないまま「素材」レベルで公的支援の是非を問題にしていたのは、非常に残念なことだ。浅薄な議論をすることが政治的ポーズになると思われているのだとしたら、そこで馬鹿にされているのは有権者である。
脚注
(注1)この作品は、あいちトリエンナーレ検証委員会が9月21日に開催したフォーラムの記録映像の中で全編を見ることができる(35:30ごろから)。
https://www.youtube.com/watch?time_continue=2141&v=-p14VEv11T0
(注2)《気合い100連発》をめぐる批判については、先日別媒体にも記事を書いたのでそちらも合わせてお読みいただきたい。
「『あいトリ』騒動は『芸術は自由に見ていい』教育の末路かもしれない」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/67828
(注3)電凸の音声は一時期愛知県によってYouTubeにアップされていたが、現在は消されている。詳しくはこちらの記事を参照のこと。
https://www.j-cast.com/2019/09/30368897.html?p=all