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雅子さま「復活」への期待 なぜ「ご体調や外交手腕」に注目が集まっているのか

雅子さま「復活」への期待 なぜ「ご体調や外交手腕」に注目が集まっているのか

2019/10/22

genre : ニュース, 社会

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同年代の女性たちと通底していた“両立の問題”

 徳仁皇太子は誰と結婚するのか、そうした報道が昭和の終わりごろより週刊誌を中心とするマスメディアに溢れており、興味関心をひいていた。そのなかで、新しい時代の象徴とも言える女性と結婚することが発表され、人々の関心は頂点に達することになる。そして、結婚パレードでは沿道に多くの人が集まり、中継されたテレビの視聴率は高かった。

1993年6月9日、結婚パレード ©JMPA

 その後、徳仁皇太子と雅子皇太子妃は積極的に海外を訪問する。いわゆる「皇室外交」の展開は、雅子妃のキャリアを活かすものとしてメディアでは報道され、人々もそれを受容していった。それは、女性が結婚しても外で仕事をするということを示し、それまでの天皇制が変化するのではないかという期待感を持たせることにもつながった。平成になり、「開かれた皇室」として、国民に近い天皇制のあり方が模索され、それがメディアを通じて伝えられていた。雅子妃の存在がその「開かれた皇室」の象徴とも見られたのである。

1994年11月、カタールを訪問された皇太子ご夫妻(当時)

 ところが、1999年12月10日に「朝日新聞」が雅子妃の妊娠の兆候をスクープしたころから次第に変化が起こる。その後、30日に稽留流産の手術を受けたと発表されたが、メディアの過熱した報道に徳仁皇太子や宮内庁が疑義を唱えることもあった。なぜメディアは報道を過熱させたのか。それは雅子妃の産む子どもが将来の天皇になる可能性があったからである。いわゆる「世継ぎ問題」である。

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 キャリアを活かして外で仕事を担うことと、伝統的な天皇制を守るために子どもを産むこと。その両立が問題となったとも言える。それは、同年代の女性たちとも通底していたのではないか。社会の状況は変わり、それまでのように家を継続し守るという感覚は若い世代にはなくなりつつあった。しかし、世間は必ずしもそうではなかったのである。