ではなぜ、日本は招致に成功したのでしょうか。そもそもティア1の伝統国以外で、ラグビーW杯を開催すること自体が初めてのこと。それを言い出したのは、イラクに赴任中に銃弾に倒れた外交官の奥克彦さんでした。奥さんは早稲田大学のラグビー部出身。外交官になってからオックスフォード大学へ留学した時もラグビー部に入り、本場イギリスのラガーマンの中に入って活躍しました。
その奥さんが日本の誰もそんなことを想像しなかったときに「日本でW杯をやりましょう」と言い出した。思い立った奥さんは同じく早大ラグビー部出身の先輩で仲が良かった森喜朗さんに相談します。
そうして動き出した招致活動でしたが、2004年に初挑戦した2011年大会の投票ではニュージーランドに敗れ、開催権を得ることが出来ませんでした。
そのときに森喜朗さんがワールドラグビー(ラグビーユニオンの国際競技連盟)の人たちに「いつまで伝統国だけでパスを回しているんだ」「なんでこんな素晴らしいスポーツをもっと世界の人たちに見てもらおうとしないんだ」と訴えたそうです。それは伝統国以外の世界のラガーマンたちの気持ちを代弁したものでした。
その招致活動のさなか、03年末に奥さんがイラクで不幸にも亡くなってしまいます。森喜朗さんは一緒にやってきた“戦友”が亡くなったことで「W杯を絶対に日本に呼ぶんだ」と思い直した。そうして09年の評議会に再び挑み、見事に2019年の日本開催を勝ち取ったのです。
「なぜ日本代表は勝たなければならないか」――廣瀬俊朗の献身
日本ラグビーを圧倒的に世界レベルに引き上げたのは2012年に就任したエディー・ジョーンズ前ヘッドコーチでした。フィジカル面、メンタル面とエディーが日本代表にもたらしたものは本当に大きかった。
なかでも、私はエディーの最も大きな功績は就任後すぐに廣瀬俊朗をキャプテンにしたことではないかと思っています。
廣瀬は前体制では選ばれることが少なく、そのときが5年ぶりの代表でした。173cmと小柄で、ウイングとしては抜群に足が速いわけでもなく、代表レギュラーに定着するほどの抜きん出た実力があるわけではなかった。
じつは廣瀬がキャプテンとして紹介されたとき報道陣は驚いたんです。廣瀬自身も「みなさん、驚かれたでしょう。僕も驚いています」と語っていましたから。