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「ジャンプ」「サンデー」「マガジン」で育ったがゆえの刷り込みとは?──恩田陸 (後篇)

話題の作家に瀧井朝世さんがみっちりインタビュー「作家と90分」

2017/02/26
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エンタメは読者のために書くものとずっと思い続けている

──また場所の話になりますが、恩田さんは小さい頃は転々として、転校もたくさんされたそうですね。そのことによるなんらかの影響はありますか。

恩田 すごくありますね。どこかに所属しているという意識がないというのは、今もあるかも。また何年かすればここからいなくなるんだなっていう諦観みたいなものがあります。なるべくそのショックを和らげるよう、ある程度の距離をもって付き合うというのが習慣になっているというのかな。

 東京は住んで一番長くなっちゃったんですけれど、でも東京に所属しているという感じはないですね。どうしても共同体の内側に入りきれないうちに去っていくという感覚は今でもまだ残っています。内側に入れていないんじゃないかと思うことは多々あります。

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――ああ、「常野物語」シリーズに登場する異能の人々をはじめ、何かに属せなかったりする人たちを描くのはその感覚があるから……というのはこじつけすぎでしょうか。

恩田 そうですね、自分はマジョリティーじゃないっていう意識が常にどこかにあるんです。だから、自分をマジョリティーだと思っている人って、すごく不思議なんですよ。少数派に立ったことがない人というのは世の中にはいっぱいいて、それがすごく不思議。たとえばサービス業の人に、すごく傲慢に接する人って不思議でしょうがないんですよ。そういう時、この人は自分が多数派だと思っているんだなって思うんです。

――自分がマジョリティーではないという意識を持ちながら、マスに向けて作品を発表するというのはどういう感覚ですか。

恩田 マスというよりは、たぶん自分が好きなものを好きな人が必ず一定数いるだろう、という信頼感があるんです。私が好きなこれを、同じように好きな人はどの年代にも必ず一定数はいるはずだと思って書いている。たまたま多くの人に読んでもらえることもありますけれども、基本、自分と同じものが好きな人たちに向けて書いている感じですね。

――一昨年「CREA」で辻村深月さんと対談していただいた時に、「いまだに作家になった実感がない」とおっしゃるから、辻村さんも本当にびっくりされていましたよね。私も驚きましたよ…。

恩田 ほんとに実感がないんですよ。本屋さんに行って人の本とかを見ると、「こんな本を出してもらっていいなあ」とか思うんです。本屋さんに行っている時は読者体質になっているので、わりと自分の本が出ても「フーン」って素通りなので。

――読者体質の時は自分が作家であることを忘れるのか…。作家によっては、執筆期間は他の人の小説を読まないという人もいますよね。読むと文体などが引っ張られてしまうから、と。恩田さんはいかがですか。

恩田 知らず知らずのうちに影響を受けてしまうことは確かにありますね。私も書いている時はノンフィクションを読んだりします。でもやっぱり、読書の最優先は本格ミステリーです。

――今でも本を読んでいて「自分もこんな作品が書きたい」と思うことはありますか。

恩田 ありますね。それは翻訳の方が多いかな。映画みたいな雰囲気の小説があって、こういうことをやりたいなと思うことはよくあります。

――映画みたいな雰囲気? 映像が浮かぶということではなく?

恩田 ではなく。なんて言えばいいんでしょうか。こういうふうにやりたいと思うのは、やっぱり翻訳小説のほうが多いかな。ミステリーに限らず。たぶん雰囲気を書きたいと思うことがあって。なかなか雰囲気だけで書いていくというのは難しいんですけれども、わりと翻訳小説は雰囲気を書くだけで成立しているものが多いような気がして。たぶんそういうのをやりたいんだなと思うんです。普通の小説で、空気感とかそういうものがいいなって。ぱっと具体名が浮かばないな……。日本人作家だと、堀江敏幸さんの『その姿の消し方』は、こんな雰囲気を書きたいなってすごく思いました。

――ああ、もうあの漂う空気みたいなものが。

恩田 そうそう、なんとも、えも言われぬ雰囲気みたいなものがあって、いいなあって。ちょっと翻訳小説っぽいんですよね、堀江さん。

――なるほど。空気感……というとエンタメというより純文っぽいイメージも抱きますが、恩田さんは以前、純文学とエンタメについて、エンタメは読者のために書くもので、純文学は自分のために書くものだとおっしゃっていましたね。

恩田 はい、エンタメは読者のために書くものだというのは今も変わらないですよ、私の考えでは。たぶん、純文学は最初の読者は自分だと想定していて、エンタメは、どこかにいる読者を想定している。どこかにいる本好きな読者、エンタメ好きな読者に向けて書いているんです。その違いじゃないかと思いますね。私もエンタメを書いている時、読者に読まれるものだと、それも楽しみとして読むためのものだという意識がすごくあります。

――ここで驚かせようとか、ここで引きを作ろうとか、読者サービス的なこととかを考えます?

恩田 エンタメはすべてが読者サービスというか。リーダビリティというのは外せませんよね。やっぱり“引き”が命っていうのはありますね。次を考えてもいないのに引きを入れちゃう、みたいな(笑)。「次号に続く」という時には必ず何か引きを入れなきゃいけないと思うし。それこそ「ジャンプ」「サンデー」「マガジン」で育っているので、次号に続く時には何か引きがなきゃっていう刷り込みがあるんです。さすがに新聞連載の時は、1回2.5枚で引きを作るのは無理でしたけれど(笑)。

©佐藤亘/文藝春秋

――恩田さんにとって面白い小説って、どういう小説ですか。

恩田 それが難しいんですよね。昔は読み始めたらやめられなくなってバーッと一気に読めるのが面白い小説だと思っていたんです。でも面白さもいろいろあって、ちんたら読める面白さとか、面白くないものも含めて渋いと思う面白さとか、いろいろあるんだなと思うようになったので。だからいろんな種類の面白さを私も書いていけるようになりたいなと思うんです。

――では、小説を書き続けるモチベーションって何ですか。

恩田 なんですかね、今はもう意地(笑)? やっぱり走り続ける意地というか。落ち着かないでチャレンジし続けるというか。縮小再生産に陥らないですむようにやっていないなというのが常にあって、それは意地ですね。

 それは読者としての自分の意地だと思うんです。もっと面白いものを読みたいという、読者体質がどこかにあって、読者としての自分をがっかりさせたくないという意地がありますね。今でも読書が一番の趣味なんですよ。面白いものを読みたいというのが、たぶんモチベーションなんじゃないかなって思います。

――『錆びた太陽』以降、今年は他に何か刊行されますか。今構想中のものとかはいかがでしょう。

恩田 今年は他には、たぶん新潮社から1冊出るはずです。長篇ですね。今後、全然違うものもやってみたいんですが、たぶん歴史小説は時代考証が無理なので無理。構想中のものというと、今はコンテンポラリーダンスを取材しているんですけれど、書けないんですよ。これどうやって書けばいいだろうっていう。前に「私と踊って」(12年刊『私と踊って』所収/のち新潮文庫)という、ピナ・バウシュの短篇を書いたことがあって、それがわりと自分でも気に入ったのでもうちょっと書いてみたいなと思ったんですが、これが書けない。

 ピアノは自分も弾いていたからなんとなく弾いている人の気持ちも分かるけれど、踊っている人の気持ちとか、分からないし。取材して「何を考えているんですか」と訊いても「いや、言語化できません」って言われて「だよね」って(笑)。でも今、鋭意取材中なんです。うまくいけば今年から連載が始められるかなという感じです。

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