恩田陸(おんだ・りく)
1992年、日本ファンタジーノベル大賞の最終候補作となった『六番目の小夜子』で小説家デビュー。ホラー、SF、ミステリーなど多彩なジャンルで活躍、2005年、『夜のピクニック』で吉川英治文学新人賞と本屋大賞を受賞。
その後も数々の話題作を発表、2006年、『ユージニア』で日本推理作家協会賞、2007年には『中庭の出来事』で山本周五郎賞を受賞。2017年1月、『蜜蜂と遠雷』が第156回直木賞を受賞。
「自分でも今から小説を書いていいんだ」と思わせてくれた本
──昔から相当な読書家だった恩田さんが小説を書き始めた経緯はもう有名ですよね。日本ファンタジーノベル大賞を受賞した酒見賢一さんの『後宮小説』を読んだ時に、思うところがあったとか。
恩田 自分でも小説を書いてもいいんだと思ったのが、その本なんです。漠然と子どもの頃からいつか作家になりたいと思っていたんですけれど、ずっと先のことだと思っていたんですよね。人生を一通り過ごした後で、老後に作家になるイメージがあったんですよ。でも酒見さんが出てきて、私と歳がひとつしか違わないということにすごくインパクトがあって。別に今から書いてもいいんだなと思ったのはすごく憶えています。
――それがお勤めの頃で、激務すぎて体を壊し、会社を辞めてから書き始めたんでしたっけ。
恩田 会社を辞めて、1か月くらいでダーッと書いて、応募して。その後は、その頃ちょうど派遣会社というのが出始めていたので、そこに登録して就職活動をしていました。
――その応募作が日本ファンタジーノベル大賞の最終選考に残った『六番目の小夜子』(1992年新潮文庫刊)で、それが本になることになり、デビューされて。それまでも幅広く読まれてきたわけですが、とりわけミステリーがお好きでしたよね。自分ではミステリーを書こうと思わなかったのですか。
恩田 ミステリーは今でもいちばん好きなんです。自分でも何か書いてみようとしたこともありましたが、すぐに私には無理だと分かったんですよ。本格ミステリーは読むほうに特化することにして、それで『六番目の小夜子』や『球形の季節』(94年刊/のち新潮文庫)のような学園ホラーみたいなものを書いていました。当時は私と篠田節子さんと坂東眞砂子さんがホラー作家としてひとくくりにされていました。確かに自分が書いているものはホラーだよね、とは思っていました。
――へえ。それで『三月は深き紅の淵を』(97年刊/のち講談社文庫)のあたりで、またちょっと違うイメージになったんでしょうか。
恩田 『三月は深き紅の淵を』を書いてやっと、自分の好きなものを書けばいいんだと思ったんです。いきなりデビューが決まったので、『球形の季節』を書いているあたりは、自分は今後何を書けばいいのか迷っていました。でも「三月」を書いて、自分が今まで好きだったもの、つまり本とかミステリーのことを書けばいいんだなと思ったんです。
――ああ、「三月」は読むことと書くことについての話ですよね。そこに理瀬という少女が出てくる話があって、それが『麦の海に沈む果実』(00年刊/のち講談社文庫)に繋がる。この「三月」には『黒と茶の幻想』(01年刊/のち講談社文庫)も出てくるという。後に繋がっていきますね。
恩田 そうですね。その頃メタフィクションが流行っていた時期だったんです。その影響もあったかもしれませんね。それこそ奥泉光さんの『葦と百合』とか、笠井潔さんの『天啓の宴』とかが出ていて。それに乗っかったわけじゃないんだけれど、今になるとメタフィクションを書いていたんだなと思いますね。
――その次の『光の帝国 常野物語』(97年刊/のち集英社文庫)は間を置きつつ、シリーズとして書かれていますよね。『蒲公英草紙 常野物語』(05年刊/のち集英社文庫)と、『エンドゲーム 常野物語』(06年刊/のち集英社文庫)。さまざまな不思議な能力を持った人々が、それを伏せて普通に生活している、という世界で。
恩田 これはゼナ・ヘンダースンの「ピープル」シリーズへのオマージュですね。これはあと1冊くらいは出るかも、という感じです。シリーズものは結構自分が飽きてしまうところがあって、あまり書いていないんですよね。同じシリーズをずっと書いている人は本当に偉いなと思います。
――その次の短篇集『象と耳鳴り』(99年刊/のち祥伝社文庫)は、装丁がバリンジャーの『歯と爪』の装丁へのオマージュになっていますよね。内容でいうと『月の裏側』(00年刊/のち幻冬舎文庫)はジャック・フィニィの『盗まれた街』で、『ネバーランド』(00年刊/のち集英社文庫)は……。
恩田 『ネバーランド』はそれこそ少女漫画的な、萩尾望都さんの『トーマの心臓』あたりへのオマージュですよね。男子寮の、学園もので。
――『麦の海に沈む果実』も学園ものですよね。少女が転校してきた学園には不穏な噂があって、図書室があって、寮やルームメイトがいて……。学園ものの、なんというか「たまらない」と思わせる要素がすべて詰まっていますよ(笑)。
恩田 わりと趣味全開で書いたんです(笑)。あれも少女漫画と、ゴシックものにすごく憧れていたので、そうしたものをイメージして書いたんですね。北見隆さんの表紙の原画をいただいたんですけれど、本当に素晴らしいんですよ。
――そう、装幀も素晴らしかったです。そして物語の最後に驚きがあって。
恩田 やっぱり極悪人が好きなんですよね(笑)。
――『上と外』(01年幻冬舎文庫刊)は、家族が中米の架空の軍事政権の国を旅していたらクーデターに巻き込まれて大冒険することになる話ですが、最初は薄い文庫でひと月おきくらいに6巻出てましたよね。
恩田 当時はスティーブン・キングの『グリーンマイル』がそうした分冊の形で出ていたんです。自分はやるつもりがなくて「あれを東野圭吾さんでやったら面白いんじゃない?」って言ったら、なぜかいつの間にか私がやることになっていたんです。あれ、本当に大変だった(笑)。後から1冊にまとめたんです。
――『MAZE(メイズ)』(01年刊/のち双葉文庫)は映画『CUBE』へのオマージュで、笑ったのが『ドミノ』(01年刊/のち角川文庫)が群像劇の映画『マグノリア』からインスパイアされたという。みんな最後に集まればいいのにって。
恩田 そう、あの映画を観ながら、てっきり最後にみんなが一堂に会するんだと思っていたら、バラバラのまま話が終わったんですよ。普通集めるよねと思って書いたのが『ドミノ』なんです。だから常に必ず先行作品に敬意を示しているわけではないという。特に『ドミノ』はそうでした。
――専業になったのはこの頃ですか?
恩田 もうちょっと前、『月の裏側』の連載を始めた頃に辞めました。たしか98年です。兼業している時はすごく寡作だと言われていたので、そこからいっぺんに連載を始めました。つきあいのある各社の編集者の方に集まっていただいて、10本分の小説のレジュメみたいなものを出して「これだけ用意がありますから、どこかで連載してください」って言って営業をしたんですよ。そのうち6本くらいは決まったのかな。その時面白かったのが、「うちでこのプロットをやる」というのが各社1本もかぶらなかったんですよ。私もこれはこの出版社かな、あれはあそこかな、とはなんとなく思っていたんですが、あんなに見事にかぶらないなんて。
――すごい話です。それらが『木曜組曲』(99年刊/のち徳間文庫)や『月の裏側』や『ネバーランド』になっていったわけですか。確かに内容がまったくかぶっていない。
恩田 『夜のピクニック』もそうです。
――あっ、そうなんですか! それくらい個性の異なる作品を並行して書くってどうだったんでしょう、専業になって書くのが楽しくて仕方ないとか…?
恩田 いや、もう専業になったから仕事を増やさなきゃというのがありました。それと、やっぱりある程度量をこなさなきゃ質が伴わないというのが念頭にあって。だからとにかく量をこなす時期というのは絶対に必要なんだとなぜか思い込んでいたんです。それであらゆる依頼を受けて書きまくっていたんですけれど、あまり関係なかったかなと思わないでもないですけれども。
――いや、関係なくはなかったのでは。どれも思い出深いとは思いますが、これで何かつかんだとか、転機になったと感じる作品はありますか。
恩田 達成感があったのは『黒と茶の幻想』ですね。書いていてまったく迷わなかったという記憶があって。書き切った、やりたいことをやりきったと思ったのはこの本です。でもやっぱりエポックメイキングだったら『夜のピクニック』になるのかな。あれは自分の学校で行っていた歩行祭の話ですが、最初はホラーになる予定だったんですよ。
――え。少年少女が歩行祭で夜通し歩くなかで自分や周囲と向き合っていく青春小説の傑作の「夜ピク」がホラーだったかもなんて、想像できません。
恩田 『六番目の小夜子』と『球形の季節』と合わせて三部作のホラーミステリーになる予定だったんです。書き始めた時はそのつもりでいて、でも書いている途中で、いや、何も起こらなくていいなと思って。何も起こさないで終わったはじめての小説でした。そういう意味では、トリックとか謎解きとかじゃなくても話を引っ張っていけるようになったんだなという点で、感慨深いものがあります。実際の自分の体験が元になっているのでこれは特にオマージュを捧げた先行作品があるわけではないですね。そういうことや、本屋大賞をいただいたという意味でも、すごく印象に残っています。