10月29日の発売とともに、業界内外を騒がしている異色のコラボ増刊「ビームス×週刊文春」。そのなかから、『週刊文春』の連載でお馴染みの小林信彦さんが綴る「あのころのビームス」をご紹介します。

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 今より少し前の東京区分地図帖の〈渋谷区〉のページをあけてみると、右の方に〈表参道交差点〉があり、左に〈山手線原宿駅〉がある。この2点を結ぶ道が〈表参道〉であり、とりあえず、修学旅行のメッカと言っても、よいのではないか。

 東京の盛り場といえば、戦前は浅草の6区(映画館街)、またスマートな銀座(モボやモガが集ったところ)をあげられたが、そこに変化が起ったのは1960年代であろうか。

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 そのころの原宿は何もなかった。それまで池袋方面に住んでいた私は、不動産屋にたのんで、麻布あたりに部屋を借りようとしていた。六本木から麻布にかけた辺りだが、時間をかけても麻布はダメ(無い)ということになり、渋谷に遠くない辺りで決めませんか、と言われた。いっしょに歩いてみると、渋谷か青山に近い辺りなら、部屋があるという。

 当時としては、ここは地下鉄や都電をおりて、明治神宮に向うためのストリートであった。JRの駅でいえば、あまり人が乗り降りしない〈原宿〉でおりればいい。その名前の通り、明治神宮へ行く参道であった。

©文藝春秋

 

表参道はアメリカ兵の遊歩道だった

 1945年、日本は太平洋戦争に負けた。アメリカ軍が進駐してきて、六本木あたりにオフィスを作った。アメリカから家族を呼ぶというので、明治神宮のとなりの広い土地(日本軍の練兵場であった)に、ワシントン・ハイツという住宅地を作った。いま、代々木公園という名になっている場所である。

 ワシントン・ハイツに住んでいたのは、アメリカ兵とその家族である。表参道は彼らの遊歩道になった。

 表参道に〈ジェームズ・リー・テイラー〉という洋服屋や、〈キデイランド〉というオモチャ屋、〈オリエンタルバザー〉という東洋風土産物店が存在するのはその名残りである。

 東京オリンピック(1964年)が近づくまでは、ここを選手村にしたいと日本側は言い、やがて、アメリカ側は埼玉県の方へと引越した。

 オリンピックが終ると、この土地に新しい道路が通り、青山通りから山手通りまで車で通り抜けられるようになった。スポーツカー、オートバイで若者が集まりはじめ、小さなスナック、レストランのたぐいが出来た。これが〈原宿族〉と呼ばれた若者の起点であり、盛り場・原宿のはじまりである。

 当時、目立ったものは、この道と明治通りの交差点にあったセントラル・アパートであり、ごく自然に住人が変化した。