二大政党制の崩壊
こうしたスキャンダルによる混乱の背景を語るには、当時の政党制について考えてみる必要がある。近年の日本の政界も民主党が約3年間、自民党長期政権からの政権交代を実現。念願だった二大政党制の時代が来たように思わせた。しかし、その後、自民党が政権に復帰。民主党は分裂と統合を繰り返し、二大政党制を崩壊させてしまった。そして、いまから九十数年前も、二大政党制を目指して一時はそれを実現しながら、やはり成功とはいえない展開をたどった。「現時点で見直してみるべき政党政治の局面は過去のどの時点であろうか。筆者はそれを大正末期から昭和初頭の政党内閣期であると考えている」と筒井清忠「昭和戦前期の政党政治」は述べている。確かに、当時の政治と社会の動きを見ていくと、メディアの在り方も含めて、最近の状況とよく似ていると感じる。
戦前の二大政党のうち、立憲政友会が創設されたのは1900年。創設者は元首相の伊藤博文だった。「伊藤は創設の趣意書で、政党に対する国家の優位を確認している」「伊藤は、政友会の独裁的な指導者の地位を確立する。政友会はいわば反政党的な政党として出発した」と井上寿一「政友会と民政党」は述べる。しかし、その後、「平民宰相」原敬が総裁となって党の性格は変貌する。
一方1924年、政友会、革新倶楽部と「護憲三派」の加藤高明内閣を発足させた憲政会は、政界流動化の中、政友会から分かれた政友本党と合流して1927年に立憲民政党を成立させる。翌28年の第1回普通選挙を推進。普選に抵抗した政友会を批判して路線を確立する。結局、戦前の政党内閣が続いたのは約8年間。そのうち、厳密に政友会、民政党の二大政党制が実現したのは約5年間だった。その後、満州事変が勃発。1932年、元海軍大将の斎藤実首相の挙国一致内閣が発足して戦前の政党政治は幕を下ろす。
政策論争よりもスキャンダルをめぐる攻防
そうした足どりの中で目立つのは、政党政治を求める声とは懸け離れた、政党の対立による混乱と不安定だ。「政友会と民政党」は「政権は二大政党のどちらか一方に必ず回ってくるようになる。ここに二大政党制の病理現象が現れる。党利党略による足の引っ張り合いが始まる。反対党の失策は敵失となって、自党が政権政党になることを約束する」「国民は二大政党の党利党略にあきれる。政党不信が始まる」とそのメカニズムを説明する。このあたりも、政策論争よりスキャンダルをめぐる攻防がクローズアップされる最近の政治の動きと重なりそうだ。
筒井清忠「戦前日本のポピュリズム」は、「ここでも大衆の興味を引きやすい話題のみが取り上げられて注視され、議会政治の地盤は掘り崩されていったのである」と指摘。「マスメディアが絶えず『政党政治の暗黒時代』といった見出しで『既成政党』を批判し、『新勢力』への期待ばかりを言いつのってきたという面によるところも大きい」と、現状と重ね合わせてメディアの姿勢を批判している。