秋籍烈日、寸毫も仮借することなき一代の鬼検事の死因不明の変死事件の真相を克明に追求する。筆者は当時毎日社会部記者。

初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「石田検事怪死事件」(解説を読む)

慰労と懇親をかねた検事たちの小宴で

 事件の発端は、30年前の昭和元年、当時はまだ大正15年といっていた10月29日の夕方から、日比谷の料亭瓢(ひさご)で石田次席検事をまじえた10人ばかりの検事たちの小宴が開かれた時であった。

 この宴会に出席した人々は当時相ついで起った大事件の検挙に関係の深い大阪、京都、名古屋、広島、福岡、仙台、札幌など上京中の地方裁判所検事局の検事正と、東京地裁検事局から吉益検事正、石田次席検事、金山、鈴木などの検事だった。事務の打合せがすんで、慰労と懇親をかねた水入らずの宴会だったのである。

朴烈氏 ©︎文藝春秋

 料亭瓢は、霞ケ関の各裁判所に近いところだけに、判検事の宴会には、よくこの料亭が使われた。瀟洒で清潔な雰囲気のある店である。

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 そのころ相ついで起った大事件というのは、堺利彦、佐野学、徳田球一、近藤栄蔵、山本県蔵らを中核として、非合法的に結成された日本共産党の大検挙、天皇に危害を加えようとした朝鮮人朴烈事件、朴烈とその愛人金子文子を、獄中で撮影した立松検事のいわゆる怪写真事件、関東大震災後に設置された復興局の汚職事件、田中義一大将の機密費不当支出事件、政党関係の直訴事件、大阪の松島遊廓移転問題をめぐる官界、政界、経済界の贈収賄事件などであった。

 ことに松島遊廓事件は、政友与党の憲政会顧問箕浦勝人氏、野党政友会の利け者岩崎勲氏などが関係し、時の首相若槻礼次郎氏もその渦中に巻きこまれ、これが発展すれば、若槻内閣の命取りとなると見られていた。

「社会悪を亡ぼすためには、死をかけても戦う」

 石田検事はこうした事件の取調べに当り、しかも秋霜烈日、寸毫も仮借することなく、当時の新聞の裁判記事には、よく石田検事の名前が出たものである。

 彼の牛込区(現在の新宿区)廿騎町20番地の私宅や、検事局の彼の事務室には、いろいろの方面から激励や脅迫の手紙が毎日のように送られてきた。脅迫状には「きさまの取調べには、被告をペテンにかけたり、誘導訊問をやったりして、遮二無二に罪に落そうとする狡るさがある。今後そんなことをやったら、きさまの生命はもちろん、家族の生命もないものと覚悟しろ」

 という意味のものがあった。

 ペテンにかけた取調べをするという非難は、弁護士のあいだにもあった。しかし石田検事はそんな脅迫状がくるたびに、

「なに言うんだ。そんなおどかしに、へこたれるような石田じゃないぞ。我輩は法を守り、社会悪を亡ぼすためには、死をかけても戦うのだ」

 と、吐き出すように言って、傍らの同僚たちを感激させたものである。

石田検事の変死を伝えた東京朝日新聞