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自宅とは方向ちがいの人気のない場所で

 ともかく左の肋骨といい、左側の前額部といい、左足の靴が脱げていたことといい、すべて左側の方に打撃をうけているのに反して、左の手が無事で、しかもその手に洋傘が握りしめられている点がおかしいということになった。

 それよりも更に不思議な点は、牛込廿騎町の自宅へ帰るのに、どうして方角ちがいの蒲田方面へ行ったかということであった。石田検事は検事局へ通勤する時は、省線(今の国電)市ケ谷駅から電車に乗って有楽町駅に降り、帰りにはその反対の電車に乗っていた。現に彼のポケットには市ケ谷駅有楽町駅間の定期券がしまってあった。

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 方角ちがいの場所で死んでいることも不審だが、午前3時から4時ごろまでの間に、こんな人気のない場所をうろついていたということも不思議だった。それに石田氏は、どんなに大酒しても酔うて乱れることがなく、翌朝はキチンと出勤の時間に家を出で、役所で平素とは変りなく、キビキビと仕事を片づけた。これは花枝夫人や同僚たちの一致し証言である。世間では氏を辣腕家だの、敏腕家だのといっていたが、それは仕事熱心のため、勢いそうした結果になったらしい。

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花枝夫人の“漠然とした予感”

 氏は明治16年9月12日、仙台市東1番町57の旧藩士の家に生れ、明治42年東京帝大法科を卒業すると同時に、司法官試補となって東京地方裁判所詰となった。大正元年4月判事に任官、同年11月鹿児島地裁付となったが、翌年2月には判事をやめて検事になった。それから東京、高崎、前橋などの区裁判所を経て東京区裁の上席検事となった。

 この頃から、一部の弁護士や被告たちに“鬼検事”と呼ばれるぐらいの辛辣な腕を揮い、彼の存在が法曹界に鮮明となってきた。昭和2年4月東京地裁検事局の岩松次席検事が海外に派遣されると、抜擢されてそのあとをうけ次席検事となった。怪死した時は数え年44の男ざかりで、上司からも同僚からも、大いに将来を嘱望されていた。

 自宅には、花枝夫人との間に、開成中学4年生の長男真平君、同校1年生の二男達也君、お茶の水附属小学校の生徒の長女のぶ子さんがいた。法廷では“鬼検事”と称された氏も、家庭では善良な夫であり、子煩悩の父であって、きわめて平和な楽しい家庭だった。

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 だが花枝夫人は、なにかしらこの家庭の幸福を破壊しようとする何者かが、いつもじっと狙っているような漠然とした予感をいだいていたということである。それは夫の異常な昇進を心よからず思うある派閥や、夫の取調べを受けている一部の被告人たちに狙われているような不安があったからだったそうだ。そしてこの怪死も、やっぱりそうした人々の手によって行われた殺人事件のような気がして仕方がなかった。その考えは、30年を過ぎた今日でも変っていないということである。