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ラグビー日本代表戦の裏の『いだてん』 “地雷の山”である近現代史を語る上で、なぜ「落語」が必要だったのか

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2019/10/27
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 関東大震災における朝鮮人虐殺(及び中国人など、日本人も含めた多くの社会的弱者が流言飛語のもとで殺害された)を暗示したシーンであることは言うまでもない。しかしこの場面をめぐってSNSの意見は割れた。朝鮮人虐殺に「暗に触れた」ことを評価する意見と、明示的に触れなかった、つまりは朝鮮人が殺害されたということがドラマの中で明言されなかったことに失望する声と。

 宮藤官九郎は『いだてん』と同時代の記録について、司馬遼太郎もかくやというほどに資料を読み漁っている。関東大震災のその夜に群集が取り囲んで叫んだ言葉が、本当は「朝鮮人か、日本人か」「十五円五十銭と言ってみろ」であったことを知っている。それでも劇中のセリフを「日本人じゃないな」にとどめざるを得なかった背景がそこにはある。

 小池百合子東京都知事は就任以後、石原慎太郎都政時代にすら送っていた、関東大震災で虐殺された朝鮮人犠牲者追悼式への追悼文の送付を取りやめ、今に至るも再開していない。その背景にどんな思想があるのかは想像に難くないだろう。保守化する世論の風向きを含めて、NHKには政権や保守の側からプレッシャーがかかっていると見る向きもある。

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関東大震災直後の神田地区 ©Getty Images

 プレッシャーは保守の側からだけではない。2019年の10月6日の西日本新聞には特別論説委員による『まだ「いだてん」を見ていない』というコラムが掲載された。筆者は自らを宮藤官九郎の旧来のファンであるとしながら、『いだてん』を見る気になれない理由について、「基本的にはこのドラマが来年の東京五輪という『国策盛り上げ企画』であるからだ。『国策に足並みをそろえる芸術ってどうなのよ』と思ってしまい、気がなえるのである」と書く。

 SNSにおいてリベラルの側には2020年の東京五輪を安倍政権の「国策」とみなし、開催に反対する東京五輪返上論が存在する。現実の国政では日本共産党ですら五輪開催そのものには反対しておらず、その手続きや運営を問うスタンスなのだが、SNSでは『いだてん』と宮藤官九郎を五輪への加担とみなして批判する論調が西日本新聞のコラム以外にも多く見られる。

『いだてん』をめぐる状況は、右からは反日、売国と吊るし上げられ、左からは政権の手先と敵視され罵られるNHKの状況そのものに見える。

併合と支配を象徴する“あの場面”をどう描いたか

 宮藤官九郎はこの状況、右からはナショナリズムの強風を受け、左からは「国策に魂を売った」となじられる中で、戦前史という地雷の山を走り抜けた。その葛藤はベルリン五輪を描いた第三十五話『民族の祭典』においても同様だった。朝鮮出身である孫基禎選手、南昇竜選手が表彰台に並び、目の前で自国の旗ではなく日の丸が上がる。

 併合と支配を象徴するその場面を映像として描いた場面は疑いなく大河ドラマにおいて画期的だった。しかしそのあと、いったいどんな言葉を日本人のキャストに言わせればその事実を物語に回収し、視聴者を納得させられるというのか。

 宮藤官九郎は「どういう気持ちだろうね」「二人とも朝鮮の人ですもんね」という主人公の周囲の言葉の後に、「俺は嬉しいよ。日本人だろうが朝鮮人だろうが(略)俺の作った足袋をはいた選手は応援するし、勝ったら嬉しい。それじゃダメかね金栗さん」とハリマヤ製作所の辛作に語らせ、金栗四三の「よかです。そっでよかです。ハリマヤの金メダルたい」という言葉でそのシークエンスの幕を引く。