はしゃぐファンと少しの涙

 木村王位誕生の瞬間、筆者の脳裏に真っ先に浮かんだのはこのお客様たちの顔だった。皆さんおめでとうございます。応援してきた甲斐がありましたね。そんな気持ちだった。

 木村王位もイベントで「終局後の大盤解説会でも、何局も来ていただいた方がたくさんいて、そういった人を見ると泣きそうになるから見ないようにしていた」と語っていたが、筆者もお客様の喜ぶ顔を見た時にちょっとだけ泣けた。

 その日の打ち上げでは、「どこでいつ祝賀会をするか?」「次のタイトルは何だ?」「来年は誰が挑戦者になるんだ?」などと大いに盛り上がった。ファンからすれば10年越し、いや20年越しの夢が叶ったのだ。はしゃぐのも無理はない。

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 当の本人はそんなことはつゆ知らず、遠く大阪の地で強敵と対局していたのだが。

 ここからは王位戦七番勝負を振り返ろう。

豊島名人(手前)との七番勝負だった ©文藝春秋

盤上での「木村王位らしさ」とは

 木村王位が開幕から2連敗した時、正直言ってシリーズの行方は決まったと思った。内容的にも精彩を欠いていた。相手も最強のタイトルホルダーだ。

 しかしそこから木村王位の巻き返しは見事だった。

 第3局は豊島名人の猛攻を耐えての勝利。第4局も長い時間受けにまわり、タイトル戦最長手数となる大熱戦を制してタイに追いついた。

 持ち味全開の2連勝で流れを引き戻すとともに、木村王位の信念が豊島名人の歯車を少しずつ狂わせていったように筆者は感じた。

 木村王位の信念とは「自分らしさ」を貫くことだと思う。相手に攻めさせてそれを受け止めて勝つ、それが千駄ヶ谷の受け師と呼ばれる「木村王位らしさ」だ。

 信念を貫くために大切なのは戦法選択だ。

 いまトップ棋士の中で将棋AIの思想を取り入れていない人は皆無と言っていいだろう。高性能のPCと強い将棋AIを使えなくても、プロ同士の棋譜を調べたり練習将棋を指す中で将棋AIの思想が伝わるからだ。

 思想で差をつけられない中で大事になるのが、「自分らしさ」を出せる展開に持ち込めるかどうかだ。

46歳3カ月。最年長初タイトル獲得の記録となった ©文藝春秋

 そこで求められるのは芸域の広さである。自分の得意とする展開に持ち込むためには、数多くある全ての戦法に対応する必要があるからだ。

 木村王位の芸域の広さはトップ棋士でも屈指といえる。逆に特定の戦法に特化した棋士は「自分らしさ」を出すことができず、軒並み成績を落としているのが現状だ。

 王位戦七番勝負で木村王位は先手番で全局相掛かり戦法を採用した。戦法としての幅が広いことから芸域の広さが生きやすい相掛かり戦法は、木村王位の「自分らしさ」が出しやすく、また豊島名人の深い研究にハマりにくい。

 さらに先手番で受けにまわることで、一手遅れる後手で豊島名人が技をかけにいくとどうしても無理が生じていた。

 木村王位は相掛かり戦法を採用した3局全てでリードを奪い、逆転負けした第2局以外は勝利に結びつけた。