東日本に珍しい、天守や石垣がある理由
日頃、講演などで会津若松城を話題にするのは、「豊臣秀吉政権における政治的な城の使い方」を説明するときです。天守や石垣のある城は織田信長によってこの世に誕生し、豊臣秀吉に受け継がれ、秀吉や家臣によって彼らの領地である西日本を中心に築かれていった経緯があります。「東日本には城はあまり残っていない」と思われがちですが、そうではありません。一般的にイメージされる天守や石垣のある城は、西日本で誕生して西日本で発達するため、そもそも東日本にはあまり存在しなかったのです。
会津若松城が東北地方には珍しい天守や石垣のある“一般的な城”なのは、豊臣政権の息がかかった特別な城だからです。築いたのは、1590(天正18)年に秀吉の奥州仕置により伊勢からやってきた家臣の蒲生氏郷。かつて南東北地方の最大勢力だった蘆名氏が支配拠点とした黒川城を大改修して、城下町を整備、黒川という地名を若松と改め、わずか3年ほどで現在の会津のベースをつくって商工業や文化の発展に貢献しました。
会津若松城は、東北一の規模を誇り、東北ではじめて城全体を石垣で囲み、東北初の天守がそびえた、豊臣政権下の大名にふさわしい立派な城でした。秀吉が有力家臣だけに使用を許可したとされる金箔瓦が見つかっているのも、会津若松城が豊臣政権の東北における支配拠点のひとつで、いわば秀吉の分身のような存在であったからでしょう。豊臣政権を会社に例えるなら、大坂城は本社、会津若松城は東北支社といったところ。絢爛豪華な城は、敵対勢力だけでなく東北の領民にも「これからは豊臣の時代だ」と知らしめたに違いありません。