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豊臣政権の“東北支社”! なぜ会津若松城の天守には「赤瓦」が使われているのか?

会津を酒処にした田中玄宰の功績を訪ねて

2019/11/08
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会津を酒処にした人物

 今回の取材では、会津藩の家老、田中玄宰の功績を改めて深く知ることもできました。5代藩主・松平容頌のとき、慢性的な財政難に苦しんでいた会津藩の社会構造を抜本的に改革した人物です。

 会津が全国有数の酒処として知られるのも、玄宰の功績。会津のお酒は決して質の高いものではありませんでしたが、過剰米をそのまま売るよりは加工して販売するのが得策と考えた玄宰が、酒造の構造改革に乗り出したのです。品質向上のため、摂津から杜氏、播磨の灘から麹師を招いて酒造家に技術を伝授させたほか、藩直営の酒造場で醸造をはじめました。

天守から見下ろす、本丸跡。本丸御殿があった。
帯郭から本丸へと通じる表門。扉や柱が鉄で包まれていたことから鉄門と呼ばれた。

 酒造業の推進は、玄宰が奨励した殖産興業のひとつにすぎません。現在、会津若松城の売店には会津漆器や会津蝋燭などがたくさん並んでいますが、これら伝統産業のほとんどは、玄宰が創設または復興したものです。軍制、教育、地方制度を改革した玄宰が、庶民の生活向上を考えて勧めた政策でした。

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白虎隊が自刃した飯盛山に建つ銅像。
「末廣」の山廃純米吟醸は、G20大阪サミットの首脳夕食会で供された。 ©志水隆/文藝春秋

 会津若松城といえば、明治維新期には戊辰戦争の激戦地になったことでも知られます。若くして命を散らした白虎隊の若者たちが学んだ藩校・日新館を創設したのも玄宰です。会津の人材育成と教育の水準は高く、上級藩士の子弟は10歳を迎えれば日新館で規範を叩き込まれるのが習わしでした。

 厳しい風土の中で、独自の伝統と文化を培ってきた会津藩。その背景を知れば知るほど、会津の旅はより深く楽しくなりそうです。

撮影=萩原さちこ

※会津若松城をめぐる旅の模様は、「文藝春秋」11月号のカラー連載「一城一食」にて、計5ページにわたって掲載しています。

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