先行シングルとして発表された「彗星」をはじめとした楽曲群は、ネオソウル的な2002年のアルバム『Eclectic』や、全編インスト構成だった2006年の『毎日の環境学』と比較すると、やはり「ラブリー」や94年のアルバム『LIFE』など、「オザケン」として彼が人々の前にいた頃を連想させるものだ。ただ、当時と現在の小沢の楽曲には、「刹那」への向かい合い方に大きな違いがある。
「刹那」を受け入れる強さが生まれた
かつての小沢の楽曲には、「本当は分かってる 2度と戻らない美しい日にいると」(「さよならなんて云えないよ」)というような、今現在が「刹那」の只中であることへの痛みと切なさがあった。対して今現在の楽曲には、この瞬間が「刹那」であることを受け入れる強さがある。
「それは 永遠の中の一瞬の あるいは 一瞬の中の永遠の 喜びか?」(「薫る(労働と学業)」)、「混沌と秩序が 一緒にある世界へ!」(「フクロウの声が聞こえる」)といった言葉で、自分の捉えたものが別のものに変転していくことへの感激や、まったく異なるものが共存する世界への関心が、今回のアルバムには強く顕れている。
「刹那」が失われていくことへの切なさよりも、「刹那」のなかで生まれたものが新しい意味を持って変転し、これからの世界をつくり出していくことへの希望を感じさせるのだ。そのことは、小沢自身が子を持ったこと、小沢に影響を受けた若い世代のミュージシャンが登場してきたことと、決して無縁ではないだろう。
タフな大人として帰還した
『So kakkoii 宇宙』という作品を通して、かつて90年代の日本のポップスの世界で誰よりも誠実に、子どものように「刹那」を描き、その喜びも苦しみも全力で生きた果てで「線路を降りた」(「ある光」)男が、「神の手の中にあるのなら その時々にできることは 宇宙の中で良いことを決意するくらい」(「流動体について」)と、かつてよりも低音域に厚みのついた太い声で歌うタフな大人として帰還したことを、私は祝福したい。
彼の歌の中で描かれる人間は、「その時々」という「刹那」の瞬間の反復を耐える力をもはや持っている。かつての小沢の果敢な挑戦を知る人々は皆、そのことをきっと喜んでいるだろうと思う。