文春オンライン

2019/11/23

『So kakkoii 宇宙』の世界には、「その時々」という「刹那」の反復を耐えるタフさはあると思う。だが、「労働」や「暮らし」を歌い称揚しているのに、そのなかにある長い持続と緊張感への意識や想像力が感じられない。

 結果的に、それらを漠然と夢想的に賛美する地に足のつかない感覚にこのアルバムは覆われている。「流動体について」で東京の街が詳細に描写され、「アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)」で自らの90年代の「暮らし」が生々しく語られるのに比べて、「毎日の技」の姿形は曖昧にしか描かれないのだ。

 音楽的な面でも、前述したように小沢の歌声は以前よりも低く太いものになっているが、かつてのようにチャイルディッシュで弾けるような歌い方を捨てた分、技巧の無さや稚拙さが目立つものになってしまった。ほぼ同世代のミュージシャンであるスピッツや曽我部恵一らがポップミュージックの世界に長く留まり、少しずつ発声やボーカルワークを洗練させていったこと(「毎日の技」!)と対照的に感じる。

彼は本質的にシンガーソングライター

 世界は変転や共存の可能性に開かれているだけでなく、硬直と断絶の不可能性もまた同時に孕んでいる。『So kakkoii 宇宙』はあまりにも前者への夢想的な希望に傾き過ぎているのではないか。大衆の「労働」や「暮らし」をも主題化していくのなら、やはり後者の絶望に、観察者的ではなく当事者的に向き合う姿勢がどこかで絶対に必要になるはずだ。少なくとも今作にそのような姿勢は感じられなかったことが、私を失望させた。

 

 小沢健二が今後果たしてどのような視点から「大衆音楽」を生み出していくつもりなのか、私には分からない。ただ一リスナーとしては、小沢が自らの長い人生のなかで生きた世界を、観察者としてではなく、そこに留まる者の緊張感を持ってこれから長く表現し続けてくれたら、と願う。

 彼は本質的にシンガーソングライターであり、過去も現在も常に、自らの生活の形がダイレクトに作品や行動に反映されてきた。ここ20年ほどまるで世界を巡る旅行者のように、ときおり姿を現しては自らの楽曲を手紙のように届けてきた彼が、自分自身の「毎日の技」としての歌をこれからは紡ぎ聴かせてくれることを、私は望んでいる。

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