「労働」「共働」といった言葉が登場するが……
それでは、『So kakkoii 宇宙』のどのような側面が、私をがっかりさせたのか? それは、このアルバムで描かれる世界像があまりにも夢想的過ぎることに起因する。
「薫る(労働と学業)」という楽曲タイトルや、「孤高と共働が一緒にある世界へ」(「フクロウの声が聞こえる」)といった歌詞に、「労働」「共働」という言葉が顕れている。働くことや相互作用を生んでいくことへの意志を明示的に感じさせる言葉は、90年代の小沢健二の音楽のなかには無いものだった。2000年代に彼がボリビアやベネズエラ等の、南米における反米・反新自由主義的な動きに注目していたことも想起させる。
だが、「あきらめることなくくり出される 毎日の技を見せつけてよ」「君が作業のコツ 教えてくる 僕の心は溶けてしまう」(「薫る(労働と学業)」)といった歌詞のなかで、日常の反復によってもたらされる「毎日の技」や、技術の習熟によって獲得される「作業のコツ」は、語り手ではなく語りかけられる「君」がくり出すものだ。
そして「君が僕の歌を口ずさむ 約束するよそばにいると」と歌詞が続き、「僕」は「労働と学業」に励む人々に歌い手として寄り添おうとはしているものの、少なくともその存在は「君」のように「労働と学業」に対する当事者性を孕んだものではない。
観察者的目線への違和感
2010年のコンサートツアーMCにおいて、小沢健二は「この街の大衆音楽の一部であることを誇りに思います」と語った。しかし少なくとも、小沢が歌うポップスは、大衆の内部からの視点によって支えられたものではない。
歌い手として大衆の生活に寄り添い、そしてそれを対象化し眺め観察しているかのような視点が彼の音楽のなかには確実に存在しており、私はそこにどうしても違和感を感じる。それは小沢が近年Twitter等で繰り返している、日本社会に対する観察者的な発言への違和感とも繋がる。
書店で文庫本にかけてくれるカバー。NYCの地下鉄でカバーをかけて読書してる人は見たことないが、日本の電車では毎日、カバーの下は隠され、推測される。同様に冬の日本でのマスク着用率は、非常に高い。あれだ、冬のマスクは、保湿だバイ菌だと理由をつけるけど、きっと自分という文庫本のカバー。
— Ozawa Kenji 小沢健二 (@iamOzawaKenji) 2019年11月18日
多くの人間は、限られた「労働」や「暮らし」のなかに留まり続けることを余儀なくされる。「今ここにある この暮らし」(「彗星」)を「平行する世界」(「流動体について」)のひとつとして見做すような「選択の余地・可能性」は、殆どの人間には開かれていない(しかも「流動体について」における「平行する世界の毎日」は、「間違いに気が付くことがなかった」ものとして思い描かれ、自らのいま現在の選択が自己肯定される)。
唯一一回限りのこの「暮らし」を生きるしかないという限定的な感覚のなかで、大衆は緊張感を持って日々を持続せざるを得ない。そしてその緊張感のなかでこそ、「あきらめることなくくり出される 毎日の技」も生み出される。観察者としてではなく当事者としてそこに関わらなければ、その緊張感に触れることはできない。