「私って陽キャ?陰キャ?」陽キャ、陰キャという言葉が流行った時にふと自分に当てはめて違和感を持った。それは属するコミュニティごとで変わるからだ。無理して変えているんじゃなくて自然と変わる。じゃあ1人の時の私は明るいんだろうか暗いんだろうか、優しいんだろうか厳しいんだろうか、感情的なんだろうか理性的なんだろうか、全然わからない。というか、1人の時の自分がよくわからない。性格は相対的なものだから。他人と比べないと自分は見えてこない。でも、「本当の私って何?」とか考えていなくても日々は過ごせるので違和感ごと忘れていた。

 村田沙耶香さんの「孵化」を読んでその気持ちがむらむらと蘇った。主人公は属するコミュニティごとにペルソナが変わる。子供の頃は「委員長」高校の時は「天然」大学では「姫」バイト先では「男っぽい」就職先では「ミステリアス」。場が期待するキャラクターを察知して、輪郭のないアメーバのように難なく変えていく。婚約者の前では「天然」で(なぜなら高校時代の友人が紹介した相手だから)、たくさんの人が来る結婚式にどのキャラで挑めば良いかわからなくなるのだ。「場」はそうやってキャラクターを欲する。なんとも形容できない人がいたら怖いからだろう。相手がどういう反応をするか予測をつけたいし、こういう人であってほしいという願望も混じる。コミュニティ崩壊を恐れる人がきっと「あなたって○○キャラだね」なんて声にするのかもしれない。おままごとだって「私お母さん」「僕赤ちゃん」みたいに属性をまず決めていた、そうした方がスムーズだからだ。異端もキャラ化することで恐怖も「そういうもの」に変わる。そしてキャラに属するとそのコミュニティで生きていく安心感が貰える。

 読み終えて「本当の自分というものがある」と期待しすぎていた自分に気がついて顔が真っ赤になってしまった。漫画のキャラクター紹介のように「クールに見えて実は寂しがりや」とかそういうのが自分にもあると思っていたのだ。でも性格を言い表せてしまったら、それは場の欲するキャラに飲み込まれたってことなんじゃないだろうか。

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©犬山紙子

 とりあえず、今の自分が抱えるペルソナ全てが本当の自分ってやつなんだろう。そしていらないペルソナはコミュニティごと捨て去ることもできる。それまでは自分のことを本体が1つでぐにゃぐにゃと形を変えるタコのようなものだと思っていたけれど、脱皮を繰り返す昆虫みたいなものだな、と認識が変わったのだった。