松谷みよ子先生の「モモちゃん」シリーズは幼い頃に読みました。赤ちゃんだったモモちゃんがどんどん成長し、アカネちゃんという妹が生まれた時には、嬉しさよりも寂しさを感じたのを鮮明に覚えています。「娘はモモちゃんに顔がよく似ているな」と2年前に『ちいさいモモちゃん』を購入するも、まだ娘に読み聞かせるには文字が多い。一緒に表紙を見ては「似てるねえ」というコミュニケーションに使っていました。
今回、『モモちゃんとアカネちゃん』のページをめくるとモモちゃんのママが離婚したと書いてある。すっかり忘れていたのでびっくりしたのです。帰るのか帰らないのかわからないパパを待つママはお風呂を沸かし、料理を作る。「パパのためなの?」と猫のプーに聞かれたら「パパのためかもしれないし、そうでないかもしれないわ。ただ、こんなふうにしているほうが、気がすむのよ」と言う。そう、ルーティーンは不安から少しの間逃れられるものだったりするんですよね。それに対しプーは「自分の妻の猫のところに行くとご飯がある時もない時もあるし、寝てる時もあるけど、彼女のこと好きだよ。彼女がいればお家だから」と本質を伝えます。
離婚後には、なんでも知ってる森のおばあさんをママが訪ねます。「おまえさんは育つ木で、ご亭主は歩く木なんだよ。歩く木と育つ木がちいさな植木鉢の中で根っこがからまりあって、どっちも枯れそうになるところへきている」とおばあさんは言うわけです。どちらを責めるでもなく、離婚を的確に伝えるこのセリフはどれだけ子供の偏見を取り除いたんだろう。
その後、アカネちゃんがパパを探し回る胸が締め付けられるお話もあります。でも、ママはアカネちゃんを預けながら仕事をして、たくさんの動物や人々に助けてもらいながら次第に元気になっていくのです。
離婚を美化するわけでもなく、一つの事実として、子供にもわかるように優しく描く。その先の物語には愛情と幸せと悲しさがあって。見えてくるのは「どんな選択をしても大丈夫だよ。愛に満ち溢れた生活はあるんだよ」という励まし。
なぜ私は離婚というかなり衝撃的な内容を忘れていたのか、それは松谷先生が離婚をおかしいものとして描かなかったからでしょう。強引に「離婚はやめましためでたしめでたし」にしなかったから、子供心に素直に受け止め、忘れていたんだと思う。心の柔らかい頃にこういう物語に出会えるのはなによりもありがたいことだなと思うのです。