怪しまれることなく現地社会に入り込めたのか
中国共産党やCIIL、向心夫妻が王立強の存在そのものを否定するのは予測の範囲内だが、それでも彼の“告白”には多くの疑問があり、鵜呑みにするのは危険と言わざるを得ない。
まず、亡命の動機が貧弱で曖昧だ。命の危険にさらされていたわけでもなく、「義憤に駆られて転向」のくだりも後付けの感が否めない。亡命が認められる大物スパイに見せようと“告白”全体を「盛った」可能性は高いだろう。穿って見れば、オーストラリア保安情報機構(ASIO)はひと目でそのあたりを見破り、メディアに王の扱いを「押し付けた」ともいえる。
『60ミニッツ』を見れば、王立強は福建なまりの強い普通話(標準中国語)しか話せず、英語もできない。こう言っては語弊があるが、あか抜けない容貌も典型的な中国の地方出身者だ。その彼が、香港や台湾でスパイと怪しまれることなく現地社会に入り込めたのかも怪しい。韓国の偽造パスポートで旅行するなら、相当のレベルの韓国語能力も必須だろう。
「妻は結婚後、豪州に」というのも奇妙だ。中国のスパイが妻帯すること自体は問題ないが、機密を扱う職務の性質上、逃亡や亡命を未然に防ぐため、妻子は実質的な人質として中国大陸に留め置かれるのが常識だからだ。
あまりにも知りすぎている
最大の疑問点は、“告白”が真実ならば、王立強は「あまりにも知りすぎているのでは」という点だ。
筆者は今年9月に100歳で死去した台湾独立運動の父・史明(シーミン)を4年にわたって密着取材したが、日本統治時代の台湾で生まれ育った史明は戦前、中国共産党のスパイとして暗躍した経験を持つ。彼はスパイについて、中国共産党の諜報組織は「ラインファンクション」と呼ばれる軍隊式のタテ型組織が特徴で、それは今も変わらないと繰り返し話していた。
「ラインファンクション」とは、例えば1名の上官が5人の部下に命令を下し、さらに5人がそれぞれの同志3~5人に伝える指揮系統のこと。タテのつながりはあるがヨコ(スパイ同士)の関係はいっさいない。タテも直接やりとりする上官以外とは面識がなく、ミッションの全貌や最終目的は不明のまま任務を遂行する。それは、スパイ同士が結託して裏切ったり、誰か一人が捕まることでグループや組織が一網打尽にされたりするのを防ぐための措置だ。
王のような社会人になったばかりの新人スパイが、組織のトップやその妻と、スパイの身であることを前提に親しいのは不自然。自身が直接関わっていないミッションや資金の額まで詳細に把握していることも考えられない。
ディテールに粗が目立つ?
それでも王立強が中国のスパイ活動に従事していたのは事実だろう。
台湾の国防部軍事情報局で35年間にわたり中台間の情報戦を指揮した翁衍慶(ウォン・イエンチン)中将は、ニュースメディア『新頭殻』の取材で「王の話はディテールに粗が目立つ。彼自身は末端の工作員にすぎず、豪州移住をエサに買収され、台本どおりに喋っただけ。問題は誰が王を利用したかだ」との持論を展開した。
また、中国の諜報機関、国家安全部が直轄する国際関係学院(UIR)のX研究員は、筆者に対し「たった20万の偽アカウントでは何の撹乱効果もない。ケタを言い誤ることは考えにくく、知ったかぶりだろう。経験の浅いスパイが香港と台湾の2地域を“掛け持ち”するのも非現実的だ」と断じつつ、王が中国の諜報ネットワークにいた可能性は否定しなかった。
とはいえ、中国共産党の手段を選ばない人権弾圧や情報工作について、ごく最近まで関わっていたという中国側当事者から証言が出たこと自体に意味はある。何より、中国共産党が莫大な資金や人員を投じて中国国外に「網の目のような情報ネットワークを張り巡らせている」事実は、今さらながら、日本人ひとりひとりが自覚すべきかもしれない。