小野一光氏 ©松澤雅彦

「そういえば吉原の『正直ビヤホール』ですけど、たしか今日で閉店らしいですよ」

 2016年12月中旬、性産業についてのシンポジウムが開かれ、その二次会で知り合ったカメラマンがふと口にした。私がいま、吉原や浅草に深く関係した“とある人物”の立ち寄り先を取材していることを話したところ、教えてくれたのだ。同店はもともと吉原の「正直楼」という遊郭があった場所にあり、1958年まで続いた赤線時代から営業していた老舗である。

 また間に合わなかったか……。

ADVERTISEMENT

 自分の行動の遅れを悔やんだが、時すでに遅しである。

 その2週間前にも、私は吉原からさほど離れていない、東京メトロ日比谷線三ノ輪駅近くにある居酒屋の前で、立ちすくんだばかりだった。

〈お知らせ 永年に渡り、皆様方に大変ご贔屓いただきましたが、誠に勝手乍ら十月三十一日(月)をもちまして閉店させていただきます。永年のご愛顧に心より感謝と共に厚く御礼申し上げます。大衆酒場中里〉

 引き戸に貼られた紙に書かれた「永年」という文字の脇には、誰かの手で「七十年」と書き添えられていた。私が聞き及ぶ限り、この店は50年創業であるため、正確には66年ということになるが、それはどうでもいい。紛れもなく「永年」続いた老舗がその歴史に幕を閉じ、そこにわずかな差で、間に合わなかったのだ。

元祖風俗ライターの死

 この2軒の店に通っていた“とある人物”の名は、吉村平吉という。1920年8月に東京・赤坂で書画骨董商の息子として生まれた彼は、05年3月、吉原に隣接する台東区竜泉の自宅アパートで死去した。享年84。当時、吉村の死を報じるメディアが使った肩書きは「元祖風俗ライター」だった。

 奇しくも生前に憧憬を口にしていた永井荷風と同じく、彼の遺体は独り暮らしの部屋で発見された。息を引き取ってから数日後のことだ。そんな吉村が最後に立ち寄った店こそが、前述の「中里」である。

 その死に様から「孤独死」と受け取られるかもしれないが、実態は異なる。吉村が生涯の住処と選んだ、吉原を含む浅草の人々は、誰もが彼に優しい目を向け、親しみを込めてこう呼んでいた。

 平さん――。