(#1より続く)
平さんと熊さん
現在でこそ、外国人観光客の増加や、浅草寺西側の通称「ホッピー通り」の人気で、週末には賑わいを見せるようになった浅草だが、吉村がエノケン一座と出会って間もない37年の浅草六区の写真を見ると、左右に派手な看板の劇場が建ち並び、その間は立錐の余地がないほど人波で溢れている。当時の賑わいは現在の比ではなく、戦前は紛れもなく日本一の歓楽街だった。
その浅草六区も、64年の東京オリンピック以降は人通りが年々減り、それまでにあった映画館や劇場が悉く閉鎖されていった。日が暮れると暗く静まり返る閑散とした状況が続き、それはまさに「時代に取り残された街」の様相を呈していた。
一方で、すっかり黄昏れ、客足の遠のいた浅草に魅力を感じ、ことあるごとに足を運ぶようになった“変った種族”もいた。
彼らのことを語る前に、もう1人の人物についても説明しておかなければならない。その人物の名は熊谷幸吉(本名:光吉)。34年12月に東京・錦糸町で宮大工の息子として生まれた熊谷の、最終的な肩書きは「かいば屋」店主。この店は浅草寺の裏を東西に走る言問通りよりもさらに北側、猿之助横丁と呼ばれる路地にあった小さな居酒屋である。店の名付け親は野坂昭如。売り上げでせっせと馬券を買って、競走馬の飼料に献ずるとの意で付けられた。
熊谷は早稲田大学文学部に入学後、落語研究会に入ったことで、1歳年上であるのちの講談社編集者、前出の大村と友人になる。やがて父親が亡くなったことで大学を中退。屋台のラーメン屋などを経て、築地の青果市場で働く。さらにカーペットのセールスマンなどを経験したのち、75年に「かいば屋」を開店した。彼を知る人々は、親しみを込めてこう呼ぶ。熊さん――。
そう、浅草には「平さん」もいれば、「熊さん」もいたのである。
「モガキ」の野坂昭如との出会い
文学好きの熊谷の小説を読む能力を認めていた大村が、彼に請われるまま野坂昭如に紹介したのは67年9月のこと。野坂が『アメリカひじき・火垂るの墓』で直木賞を受賞する4カ月ほど前だ。
〈初秋の夕刻、眼鏡をかけ、ひょろっと大柄、神経質そうな男が、身をすくめ、足取りたどたどしく、大村に伴われやって来た。熊谷幸吉、はじめ口数少なかったが、酒が入ると、「こういっちゃ何だけど、いまんとこ小説見渡してって、まあそんなに知んないけど、モガキの筆頭は野坂さん、こりゃもうはっきりしてます」「モガキ?」とっさに、溺れかけている状態を思い、「モガキってな、ヤッチャ場(筆者註:青果市場)の符牒で、値上りしてんのをいいます(略)大村さんにもよくいってんですよ、これからは野坂さんだって」〉(野坂昭如著『文壇』より)
この出会いから間もなく、熊谷は野坂宅で居候を始める。居候期間は数カ月と長くはない。とはいえ、そのとき熊谷には妻と幼い娘がいた。
酔狂連の始まり
そして、野坂と親しくなった熊谷の発したある一言が、当時巷で話題となった、ある集まりへと発展する。それは野坂が大村や熊谷と会っているときのこと。熊谷が近頃は松茸がむやみに珍重されているのが面白くない、自分の勝手知った青果市場で大量に仕入れてくるので「バカバカしく食べよう」と声を上げたのである。それを聞いた大村が、松茸を焼くのなら「浅草の『染太郎』に頼んでみましょうか」と提案したのがきっかけだった。
この「染太郎」は37年に開店したお好み焼き屋で、高見順が39年1月から雑誌『文藝』で連載を始めた浅草を舞台にした小説『如何なる星の下に』に「惚太郎」なる名で登場する。現在も営業を続けており、今年で創業80年になる老舗だ。
熊谷の申し出に反応した野坂や大村が友人、知人に声をかけたところ、数多くの作家や文化人が顔を揃えた。そしてそれが「酔狂連」という集まりに繋がったのである。以来、「酔狂連」は、たまり場こそ四谷荒木町にあった文壇バー「まろうど」だったが、浅草をスタート地点に、いくつもの“酔狂”な催しを開くことになる。このメンバーに吉村平吉もいた。彼は自著『浅草のみだおれ』のなかで、次のように記している。
〈酔狂連の主だったメンバーは、殿山泰司、田中小実昌、長部日出雄、石堂淑朗、後藤明生、佐木隆三、小中陽太郎、黒田征太郎、安達曈子、金井美恵子、等々の錚々たる諸氏だったが、第1回目は、やはり連中のひとりだった熊谷幸吉さんが築地市場のヤッチャ場に勤めていた伝手で、上等の松茸を大量に仕入れてきてもらい、鉄板の上でジャガ芋かキャベツでも焼くように無造作に焼いてジャンジャン食べる、松茸をたらふく食う会。こんなに豪勢なマツタケの食べ方を見たことがない、と染太郎のオバちゃんがびっくりしていた〉