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3分間だけ2人きり

 先に取り上げた三ノ輪の「中里」の2階に集合して白装束に着替え、「寒参り」と称して団扇太鼓を叩きながら浅草や銀座の町を「南無妙法蓮華経」と唱えて練り歩いたこともある。これはじつは、吉村の内縁の妻が新興宗教に凝り、それが原因で別れたことから、彼を慰めようと、あえて日蓮宗の団扇太鼓でお題目を唱えてまわるという企画を立てたというもの。大村が当時を振り返る。

「吉村さんが寒参りについて調べに行こうと話してね、池上の本門寺にいちど一緒に調べに行ったんです。で、衣装は白装束だろうということで、貸衣装屋で借りて、それから三ノ輪の吉村さんの行く店の2階でみんなで衣装を着ましてね、なんか忠臣蔵の討ち入りみたいだって……。それでマイクロバスを借りて三ノ輪から浅草に行き、それから銀座にも行ったんです。この『酔狂連』の催しの発案者には、平さんとか熊さんとかいたかもしれないけど、やっぱり肝心のエネルギー源は野坂さん。誰もが彼のまわりに集まりたいというのがありました」

 しばらく続いた「酔狂連」の催しのなかで、とくにユニークだったのが、野坂の直木賞受賞から間もない68年3月に実施された「線後10年――赤線忌」というイベントである。これは当時吉原にあった元遊郭の旅館を、吉村の伝手で貸し切り、女性編集者や有閑マダムなどが「敵娼(あいかた)」役となって、当時の遊びを追体験するというもの。女性たちはまず、貸衣装屋から借りた女郎風の長襦袢を着て大広間に待機し、男性ゲストたちと宴会をする。そしてゲストが女性を指名して、その女性と3分間(吉村説。野坂昭如著『文壇』では5分と記載)だけ、別室の布団が敷かれた小部屋にて2人きりになれるというものだ。その間、女性が嫌がりさえしなければ、なにをしようと自由という取り決めだった。

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 旅館の玄関脇の小部屋を帳場に見立て、そこには女将役として、家元の父に背いて兄と家を出て間もない華道家の安達曈子が座る。野坂と彼の幼年時代からの悪友である文筆家・華房良輔の2人が、廓の案内人である妓夫太郎(牛太郎)となり、「えー、おひとりさん、ご案内――」とゲストを先導し、時間終了を部屋の前で伝えたという。編集者の大村もその場にいたと語る。

「女性は中央公論と講談社の編集者もいました。中央公論は水口義朗って編集者がいるんですよ。彼が2人の女性編集者を、それから講談社からも2人かな。で、あとは有閑マダムでしょう。それを澁澤龍彦さんの妹の澁澤幸子さんが『みんなモジモジしていないで』と音頭取りをやって、彼女自身が薄い襦袢を着たりして、いや、面白かったねえ」

 それから49年が経つ。舞台となった吉原の旅館もいまは取り壊され、マンションになっている。

特大の広告に7人の男

〈トルコ風呂四八、サウナ四、旅館五一、民謡茶屋および料亭五、ヌードスタジオ七、その他バー、小料理屋、スナック、射的、弓場、などなど……昭和ヨンロク吉原の初春たけなわであります。首尾よく、めでたく、今年もそこにうっかり生きております。――一九七一年明けて〉(『吉原酔狂ぐらし』より)

 吉村は71年に出した自身の年賀状に、当時の吉原の様子を記録していた。「トルコ風呂」という名称が「ソープランド」と正式に改められたのは84年12月のこと。その後、バブル景気に浮かれた80年代後半までに吉原の「ソープランド」は、多いときで250軒ほど営業していた。しかし、実質的に吉原がもっとも景気がよかったのは、この年賀状がしたためられた時期にあたる、67年から73年までだったという。

 この71年もまた「平さん」と「熊さん」の2人は、浅草を根城に多彩な活動を続けている。

 2月20日の『朝日新聞』朝刊に、見開き全2頁を使った、特大の広告が掲載された。テーブルを囲んで男たち7人がコーヒーカップを持った写真で、インスタントコーヒー『マキシム』の広告だ。写真に写る男たちが次のように紹介されている。

〈左から 石堂淑朗(作家)黒田征太郎(イラストレーター)浦山桐郎(映画監督)桜井順(作曲家)野坂昭如(作家)浜垣容二(プロデューサー)熊谷幸吉(時代考証家)〉

 当時、熊谷が野坂を通じて交流範囲を広げていたことがよくわかる。

苦界から区会へ

 一方の吉村は、4月11日投票の台東区議選に立候補した。きっかけはまたも「酔狂連」で、そろそろ催し物がタネ切れになってきたため、今度は選挙だということで、時間のある吉村が出馬することになったのだ。ちなみに事務局長は同じく時間に余裕のあった熊谷が務めている。この選挙では吉村が「苦界から区会へ」とのキャッチフレーズを作り、ポスターは黒田征太郎が、テーマソングは野坂が歌う「マリリンモンローノーリターン」を作った桜井順が手がけた。つまり、先ほどの『マキシム』の広告と、メンバーの多くが重複しているのだった。

 雑誌『浅草』で「あさくさ交遊録」という連載を持ち、吉村とも親しかった皮革産業資料館の稲川實副館長から提供いただいた選挙時の資料によれば、〈▼キミも選挙をやろう▼新鮮で楽しいプレイタウンをつくろう▼小さなことを決して忘れない区政を▼ザックバランな話し合いが実行を生む▼水商売は下町の命――〉を訴えて、吉村は選挙に挑んでいた。

 推薦人の筆頭は野坂昭如で、田中小実昌や殿山泰司も名を連ねた。しかし、推薦人の顔ぶれは派手だが、そのなかに台東区民はおらず、無所属の泡沫候補ということで、候補者53人中最下位。得票数は277票という惨憺たる結果だった。

 それにもかかわらず、吉村は選挙活動に思いがあったようで、その後も79年までに3回出馬。結果だけを記すと、2回目に出た補欠選挙は21人中19位、3回目の選挙は49人中44位、4回目の選挙は48人中46位である。

 吉村の1回目と2回目の選挙の間である73年10月、吉原にある料亭「松葉屋」で、彼が初めて出した単行本『実録・エロ事師たち』の出版記念会が開かれた。「松葉屋」は58年の売春防止法完全施行前までは、客を遊女屋に案内する引手茶屋で、61年に浅草生まれの作家・久保田万太郎の後押しによって開業した。そこでは吉原芸者衆によるお座付き、花魁道中などが披露され、「松葉屋は遊郭の文化を発展させた吉原の玄関」とまで言われた店だ。

 この出版記念会では、野坂が司会を務め、吉行が挨拶をした。さらに花魁ショーでのお大尽役を役者の殿山が引き受けるなど、吉村の門出を祝いたいという周囲の優しさが感じられる。ただし、調子に乗った吉村がストリップ嬢を呼び、ヌードショーを披露してしまったため、“正統派”である同店主人の逆鱗に触れ、しばらくの間、出入り禁止を言い渡されるというおまけもついた。

 吉原大門のそばにあった「松葉屋」は、98年に惜しまれながら廃業した。花柳界の趣を残す建物も壊され、かつての面影は、いまはまったく消え去ってしまった。

(文中敬称略)

(#3に続く)

出典:文藝春秋2017年3月号・全3回